OLAFのカナリア諸島・マデイラ島クルーズ⑧(’16年5月13日 リスボン観光)

(前ブログからの続き)
画像

最初は「ジェロニモス修道院」
ヴァスコ・ダ・ガマによるインド航路開拓及び、エンリケ航海王子の偉業を称え、1502年にマヌエル1世によって着工され、1511年に回廊など大部分が完成したものの、その後、マヌエル1世の死やスペインとポルトガルの同君連合による中断等もあり、最終的な完成には300年ほどかかっている。
その建築資金は最初バスコ・ダ・ガマが持ち帰った香辛料の売却による莫大な利益によって賄われ、その後も香辛料貿易による利益によって賄われた。
世界遺産になっている。
画像

画像

画像

画像

広場に飛行機のモニュメントがありました。
なんでも1922年にリスボンからブラジルのリオ・デ・ジャネイロまでの単独飛行8383kmに成功した飛行士の功績を称えて設置されたものだそうです。
もちろん複葉機は本物ではなくレプリカです。
リスボンからリオ・デ・ジャネイロまでの飛行時間は約62時間半ほどだったそうです。
因みに偉業を成し遂げた飛行士サカドゥーラ・カブラルは、この成功から2年後に亡くなったそうです。
画像

次は「ベレンの塔」
16世紀にマヌエル1世によってヴァスコ・ダ・ガマの世界一周の偉業を記念して作られたテージョ川の船の出入りを監視する目的の要塞である。
建築様式はマヌエル様式である。
ジェロニモス修道院と同じく、建設を命じたのはマヌエル1世である。
ヴァスコ・ダ・ガマの業績をたたえる目的をこめた灯台だが、テージョ川河口を見張る要塞としての機能も備えていた。
当時のリスボンでは、英国やオランダの海賊に対する備えが必要だったのである。
1755年にリスボンを襲った大地震では多くの建物が被災したが、ジェロニモス修道院とベレンの塔があるベレン地区は難を逃れ、さして損壊を被らなかった。
ただし、その地震で川の流れが変わったことで、ベレンの塔は中洲から川岸へと、位置関係を変えた。
画像

画像

次は「発見のモニュメント」
このモニュメントはリスボンの西部、ベレン地区にある大航海時代を記念した記念碑。
エンリケ航海王子を先頭に、その他の同時代の探検家、芸術家・科学者・地図制作者・宣教師ら約30名のポルトガル人の像がある。
記念碑は52メートルの高さのコンクリート製で、キャラベル船の船首の曲線に似せてある。
建築家コッティネッリ・テルモと彫刻家レオポルド・デ・アルメイダが、ポルトガルで開催された1940年の国際博覧会(Exposição do Mundo Português)の象徴として制作したものである。
独裁者アントニオ・サラザール時代の典型的な、過去のポルトガル栄光の時代へのロマン思想を表しているとみられている。
最初に作られた記念碑はもろい素材で制作されたため、エンリケ航海王子没後500年の記念行事として1960年にコンクリートで再度制作された。
彼は記念碑にある像の一つとなり、川を見つめている。
画像

画像

その反対側(東側)にも、違う人物が掘られている。
画像

画像

OLAFも知っている「フランシスコ・ザビエル(日本へ1549年にキリスト教を伝道した宣教師)」の像も有った。
画像

発見のモニュメントがある広場の石畳の足元には「世界地図のモザイク」がありました。
ポルトガルの大航海時代の立役者たちが辿った航路を示したものです。
1960年に南アフリカ共和国から贈呈されたものだそうです。
ポルトガルが色んな大陸や国に到達(発見?)した年が記述されています。
日本もありました。
ポルトガル船が種子島に漂着した1543年ではなく、豊後に漂着した1541年が日本とポルトガルの関係の始まりとされていました。
画像

画像

画像

これが日本です。
画像


船に戻って軽いランチです。
残っていたシャンパンとリドから持ってきたピザなどで一杯を楽しみました。
画像

6時からディナーです。
画像

メニューです。
画像

画像

画像

画像


初めてきたリスボン。
なかなか面白い町だった。
ポルトガルと日本は深い関係が有ったのは知っていた。
鎖国をしている間も出島に出入りしていた国だ。
日本に色々な物(カステラ・・・・等)を持ち込んだその大元の場所を見ることが出来た。
満足。
明日は又終日航海の日だ。
(次ブログへ続く)