OLAF in ロスアンジェルス(’14年8月8日 ②ロサンゼルス観光、日系アメリカ人国立博物館)

最後にリトル東京にある”日系アメリカ人国立博物館”を見学することにした。
ネットによると
”この展示は、明治時代の一世の渡米から現在にいたるまでの、百年を越す日系社会の歴史を紹介しています。
歴史をものがたるひとつひとつの展示品や写真のコレクションは、ハワイ、ロサンゼルス、サンフランシスコ、ニューヨーク、シカゴ、サンディエゴなど全米各地から集められたものです。”との事だ。
ハワイでは、「大戦が始まるとカリフォルニアの強制収容所に日本人移民のリーダークラスが移動させられた。」という話をよく聞いたがカリフォルニアの” 日系アメリカ人国立博物館”を見ればその後の彼らの生活も理解が出来よう。


博物館では”七夕フェスティバル”の準備が進んでいた。
七夕飾りがロスの空に綺麗に靡いていた。
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コンクリートの上に移民の人が使った梱りの絵が描かれていた。
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中に入ると細かい展示が訴えかけてくる。
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この時のトランク等が展示してあった。
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その後、いわゆる写真花嫁で日本から嫁さんを貰って二世が生まれる時代となる。
この二世は二つの文化を学び剣道、フットボール、日本人学校までできていた。
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排斥運動が高まってきた。
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第二次世界大戦が始まると強制収容所に移動させられた。
日本軍がハワイの真珠湾を奇襲すると、アメリカはすぐ、日系アメリカ人が国防に危険をもたらすのではないかと疑いました。
実際には、日系アメリカ人は真珠湾攻撃にまったく関係しておらず、スパイ行為や軍事、生産への妨害行為なども、当時もいまも、まったく発見されなかったにもかかわらずです。
強制収容された日系アメリカ人たちは、その7割がアメリカ生まれの二世で市民権を持っていましたし、のこりの3割の一世たちも、市民権を取ることは禁じられていましたが、すでに永住権をもち、20年から40年もアメリカで暮らしていた人たちでした。
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移設された収容所。
ここに8人が生活していた。
屋根は有るけど天井が無い。
生木板で囲っていただけなので乾燥してくると隙間だらけになった。
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全米1強かった軍隊。
勲章も多く貰ったが、死傷者も多く出した。
忠誠心の表れだったと言う442部隊。
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同じ建物内に「ドジャース:ゲームの同志」室があった。
この展示では夫々が後世に語り継がれる様な業績を残した4名のプレーヤー達、ジャッキー・ロビンソン、フェレナンド・バレンズエラ、チャン・ホ・パーク、野茂英雄と、殿堂入りを果たした監督のトミー・ラソダらのストーリに焦点があたってました。
説明によると
”監督・プロ野球球団経営者であるブランチ・リッキーは初のアフリカ系アメリカ人選手ジャキー・ロビンソンと契約を結び、それまであった野球界の人種差別の垣を撤廃したのです。
球団経営者であるウオルター・オマリーはドジャース球団の人種差別撤廃をさらに促進し、更に球団をロスアンゼルスにもってくることにより西海岸へのメージャーリーグの発展を企てドジャー・スタジアムを球団の負担で建造しました。
ピーター・オマリーはスポーツ界では野球を代表する知名度の高いドジャースを使って、野球を国際的な球技にまで高めたのでした。来場者はドジャース・スタジアムを単なる野球場としてではなく、集められた野球の用具のコレクション、写真、選手の活躍を表すオリジナルの品々などを見ることができ、ドジャーズは単なる野球の球団以上のものであるということを感じることができるのです。”
との事。
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野茂の記念品が多く飾られていた。
トルネードで一大旋風を巻き起こした偉大な選手だったのが良く解る。
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移民した人たちの苦労がしのばれた。
ハワイ移民以上に苦労したようだ。

その人たちのお蔭で今の日本が有る。

しかし、リトル東京の日本人町のスケールとチャイナタウン、コリアンタウンのスケールの違いは大きい。
彼らは群れて大きな街に変化させてきていた。

今の中国などは、共産党幹部が家族と資産をカリフォルニア等に移していると言う。
ますます、大きくなって政治的力を持っていくのだろう。

慰安婦問題で慰安婦の象等立てる力を持ってきた意味が良く解る。

日本も政治的に力を持てるように頑張らなくては・・・