OLAF’S Diary in 京都 (’09/4/1 南禅寺の桜・琵琶湖疎水記念館)

今日も花冷えのする朝だ。
しかも午後からは雨の予報さえ出ている。
午前中に南禅寺の桜を見物に行ってこよう。
もう見頃と言われている。


蹴上から琵琶湖疎水沿いに歩いて南禅寺へ。
前回来た時よりも桜が満開になっている。
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南禅寺は臨済宗南禅寺派の大本山で、今から710年あまり昔の正応4年(1291年)、亀山法皇が無関普門禅師(大明国師)を開山に迎えて開創された。

間もなくすると南禅寺の三門が見えてくる。
三門は五間三戸二階二重門の規模で左右に山廊をもち、禅宗(唐)様からなる三門正規の形式の雄大な建築です。
南禅寺の三門は別名「天下竜門」ともいい、上層の楼を五鳳楼と呼びます。
歌舞伎「楼門五三桐」の石川五右衛門の”絶景かな。絶景かな。”で有名です。
桜とよくマッチして壮大さが浮かび上がります。
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三門越しに見える桜はまた格別です。
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本坊は、白壁を鮮やかに区切る黒々とした用材、すっきりとした屋根の稜線が美しい。
そこに咲いている桜によって、より美しさが増します。
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赤煉瓦のアーチを思わせる水道橋は水路閣と呼ばれ、南禅寺の古めかしさになじんで、今では一種の美を湛えている。
疏水は、琵琶湖から京都市内に向けて引かれた水路です。
滋賀県大津市で取水され、南禅寺横を通り京都市東山区蹴上迄の区間で、南禅寺横の部分が水道橋となっている。
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水路閣の下をくぐると、南禅寺発祥の地である南禅院にでる。
南禅院方丈は、元禄16年(1703)徳川綱吉の母、桂昌院の寄進によって再建され、総桧の入母屋造こけら葺きです。
内陣中央には亀山法皇御木造(重文)が安置され、襖絵は狩野養朴とその子如川隋川の筆になる水墨画です。
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南禅院庭園は当時のおもかげを残し、鎌倉時代末の代表的池泉回遊式で、周囲を深い樹林で包まれた幽玄閑寂の趣は格別です。
向かって左の奥に滝口の石組みが組まれ、上池は曹源池と呼ばれ竜の形に作られ中央に蓬莱島があり、下池には心字島が設けられています。
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方丈(桃山期、国宝)は大方丈と小方丈からなり、大方丈は天正度の内裏清涼殿を移築したものです。
平面は6室に分かれ、中央南の御昼の間は清涼殿時代に昼の御座であった御帳の間の別称を残しており、広縁の欄間彫刻、天井、板扉の形式とともに近世宮室建築の姿を伝えています。 
大方丈前面の庭園は俗に「虎の子渡しの庭」と呼ばれ、小堀遠州の作と伝えられています。
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内部の障壁画(重要文化財)は124面を数え、桃山前期の狩野派の手になるとされています。
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渡り廊下で仕切られた各庭が良く手入れされていて美しい。
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如心庭。
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六道庭。
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華厳の庭。
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小方丈の普段は使われない大玄関。
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参拝を終わり、岡崎公園の方へ歩く。
そこに琵琶湖疎水記念館という疎水に関する記念館がある。
疎水事業は東京遷都で人口が1/3も流出し、衰退した京都を復興させるための大事業であり、その全容が記録・展示されている。
琵琶湖疎水とは、用水・発電・水運のために滋賀県の琵琶湖から引いた運河のことである。
ただし、取水口の大津からは長大なトンネルが必要で、設計を依頼した外国人技師もさじを投げる難事業だったが、ほぼ人力だけで多くの費用と犠牲者を出しながらも1890年(明治23年)に完成した。
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展示室には関連の資料が展示されていた。
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インクラインの模型が展示されていた。
仕組みがよく分かる。
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裏へ出ると、今は使われていないインクラインの跡がある。
桜が前回来た時より美しさを増している。
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この後、平安神宮へ行こうと思っていたら雨が降り出した。
天気予報より少し早かった。
仕方がないので、もう帰ろう。