OLAFの東京散歩 弟5回 (’09年1月 両国周辺の史跡探訪)

1月23日、OLAFは両国周辺の史跡探訪に出かけた。
ガイドさんがついてくれて、色々説明が聞けるという。
一人で歩き回るのもいいが、知らない事ばかりでは肝心な点を見逃してしまう。
専門のガイドさんがいてくれると、楽しみは倍増する。


’09年1月場所が行われている両国国技館。
その直ぐ前の両国駅に集合。
大相撲も久し振りに二横綱が揃い、優勝争いをして盛り上がっている。
国技館入り口には、高さ約16メートルの櫓(やぐら)が立てられ、のぼりも立てられている。
大相撲の雰囲気が盛り上がっている。
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お相撲さんが、沢山歩いているが、すれ違うと鬢付け油の香りが漂ってくる。
未だ朝なので、有名なお相撲さんには会わない。
しかし、皆さんデカイ!
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最初の、探訪先は回向院。
両国通りには、お相撲さんの銅像と、歴代横綱の手形が飾られている。
皆お腹を触るので、お腹が光っている。
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北の湖の手形。
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若乃花の手形。
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回向院へ到着。
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回向院は、今からおよそ350年前の明暦3年に開かれた浄土宗の寺院です。
この年、江戸には「振袖火事」の名で知られる明暦の大火があり、市街の6割以上が焼土と化し、10万人以上の尊い人命が奪われました。

「振袖火事」は、江戸時代に「この振袖を着ると病死する」と言う呪いの掛かった振袖を、お払いし、火にくべたところ燃え上がって、空にまい、火事になったと言ういい伝えの火事です。

この災害により亡くなられた人々の多くは、身元や身寄りのわからない人々でした。
当時の将軍家綱は、このような無縁の人々の亡骸を手厚く葬るようにと隅田川の東岸、当院の現在地に土地を与え、「万人塚」という墳墓を設け、遵誉上人に命じて無縁仏の冥福に祈りをささげる大法要を執り行いました。
その後、安政大地震の死者25,000人余りを初めとして、江戸府内の無縁仏、天災地変による死者も埋葬され、近くは大正12年の関東大震災の死者10万余人の分骨も納骨堂に安置してあります。
「有縁・無縁に関わらず、人・動物に関わらず、生あるすべてのものへの仏の慈悲を説くもの」
として現在までも守られてきた当院の理念で、日本一の無縁寺になったと言う事です。

力塚の碑がありました。
江戸後期になると勧進相撲の定場所が当院に定められ、明治末期までの七十六年間、いわゆる“回向院相撲”の時代を日本相撲史上に刻したのです。
力塚の碑は、昭和十一年に相撲協会が歴代相撲年寄の慰霊の為に建立したものですが、その後も新弟子たちが力を授かるよう祈願する碑として、現在も相撲と当院とのつながりを示す象徴になっています。
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万霊供養塚の上に立つ新しい風をイメージに平成14年に作られた聖観音
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ねずみ小僧の墓が有ります。
時代劇で義賊として活躍するねずみ小僧は、黒装束にほっかむり姿で闇夜に参上し、大名屋敷から千両箱を盗み、町民の長屋に小判をそっと置いて立ち去ったといわれ、その信仰は江戸時代より盛んでした。
(ほんとは、義賊ではなく自分でばくちに使い、皆には分けなかったようです。)
長年捕まらなかった運にあやかろうと、墓石を削りお守りに持つ風習が当時より盛んで、現在も特に合格祈願に来る受験生方があとをたちません。
そこで、お墓の前に「お前立ち」と言う石が置いてあり、「これを削って持って行って下さい。」との看板が立っています。
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地蔵菩薩があります。
右手に錫杖、左手に宝珠を持たれており、参詣者は願い事が成就すると塩を供えたことから、「塩地蔵」と呼ばれ親しまれてきました。
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次は、吉良邸後です。
別名本所松坂町公園ともいわれる「忠臣蔵」でおなじみの、赤穂義士の討ち入りがあった吉良上野介義央の上屋敷跡です。
その昔、吉良邸は松坂町1、2丁目(現両国2、3丁目)のうち、約8,400平方メートルをしめる広大な屋敷でしたが、年を経て一般民家が立ち並び、今ではその面影もありません。
小さな公園のようです。
当時の86分の1の広さだそうです。
周囲の石壁は江戸時代における高家の格式をあらわすなまこべい長屋門を模した造りで、園内には元吉良邸にあった著名な”首洗いの井戸”や稲荷社などの遺跡があり、当時を忍ばせています。
”大石内蔵助”の息子”大石主税良金 (おおいしちからよしかね)”が討ち入った、裏門はもう既に工事中のマンションの陰に隠れてしまっていて見ることは出来ませんでした。
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赤穂浪士たちは、討ち入り後、此処から浅野家の墓がある泉岳寺まで雪の中を、吉良上野介の首を持って10Kmを3時間かけて歩いていったそうです。
しかも、両国橋を渡らず、江戸内の大名達との無用な争いを避けるため、江戸の外側を通るような勝鬨橋を渡って行ったそうです。
歌舞伎の世界を彷彿とさせる、探訪でした。

一人で歩いていたら見逃してしまうような所にが飾ってありました。
この錨は日露戦争で活躍した日本海軍の駆逐艦「不知火(しらぬい)」のもの。
両国1丁目の鉄工業岡田商事(旧岡田菊次郎商会)が軍艦解体工事で得たのを昭和初年に江東(両国)小学校に寄贈したもの。
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区立両国小学校 の門に、芥川龍之介文学碑が建っていました。
龍之介は明治25年3月1日、京橋区入船町8丁目(現中央区明石町)に生まれました。
生後7ヶ月で母が病気となり、この地本所小泉町15番地(現両国3丁目22番)に住む伯父の芥川道章に引き取られ、やがて養嗣子として育てられました。
芥川家は、代々江戸城の御数寄屋敷衆を勤めた旧家でした。
道章は俳句や盆栽に親しむとともに、南画をたしなみ、また一家をあげて一中節を習い、歌舞伎を観る等、江戸趣味の濃い家庭でした。
自殺するまでの間に、羅生門を初め数々の名作を世に残しました。

この碑文には、 
「ーお前はもう仙人になりたいといふ望(のぞみ)も持つてゐまい。
大金持になることは、元より愛想がつきた筈だ。
ではお前はこれから後、何になつたら好いと思ふな。」
「何になつても、人間らしい、正直な暮しをするつもりです。」 
杜子春の聲には今までにない晴れ晴れした調子が罩(こも)つてゐました。
「杜子春」より

と記されていました。

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勝海舟生誕の地の碑が建っていました。
公園の中の碑は、一人で歩いていたら気がつかなかったでしょう。
勝海舟は幼名を麟太郎といい、文政6年1月13日この地、男谷精一郎邸内で生まれました。
剣は島田虎之助に師事し、蘭学海洋術を学び、万延元年幕府軍艦艦長として太平洋を横断渡米。
船酔いがひどく、寝てばかりいたそうです。
慶応4年3月13日高輪薩摩邸において、大総督付参謀西郷隆盛と会談し、江戸城の開城を決定して、官軍の江戸進軍を中止させ、江戸百万の庶民を戦禍から救ったことはあまりにも有名な話です。
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お昼は、”ちゃんこ霧島”でちゃんこを食べました。
ここは、 元大関霧島がやっているちゃんこ屋さんです。
部屋には、元大関霧島の現役時代の写真や、関連グッズが飾られていました。
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此処のちゃんこは豚肉など、相撲の世界では「四足」(土俵に手をつく)はちゃんこに入れないと聞いていましたが、きちんと入っていました。
寄せ鍋風でした。
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ビールは必須アイテムです。
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食後、このちゃんこ屋さんの裏にある、陸奥部屋を見学です。
時代が変わって、今や相撲部屋もビルになっていました。
陸奥部屋は歴史のある部屋で、霧島関が井筒部屋の部屋付き親方として後進の指導にあたっていた部屋を、昭和47年7月に10代井筒親方の死去に伴い11代井筒に名跡変更して井筒部屋を継承しました。
昭和49年7月に7代陸奥に名跡変更し、井筒部屋の全力士を連れて陸奥部屋を創設した経過が有ります。
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本場所中だったので誰も練習はやっていませんでした。
土俵際の壁には、神棚の隣に元の井筒親方の写真が貼ってありました。
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この後は、江戸東京博物館見学です。
脇の道に、冬桜が咲いていました。
冬に咲く桜があることは知っていましたが、こんな所にあるとは・・・
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江戸東京博物館へは、、2008年7月にアメリカで確認され話題となっている、天璋院篤姫が婚礼時に使用した乗物が、特設展示場で、初公開されています。
それを見に来ました。
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特設展示場は撮影禁止でした。
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女乗物の外装の模様の美しさや内装の絵画の見事さは、驚くほどでした。
篤姫が乗ったと言われる駕籠は、特に優雅で美しく葵の門、双葉葵の門が書かれたり彫られたりしていました。
内側は、源氏物語が書き上げられ驚きの美しさです。
まさに、贅を尽くした駕籠でした。
こんな美術品が日本から流出していたとは、残念でなりません。

常設展示室は、「江戸ゾーン」「東京ゾーン」「第2企画展示室」で構成され、浮世絵や絵巻、着物、古地図など約2,500点、大型模型など約50点あまりが展示されていました。
撮影OKの展示物を幾つか、掲載しておきます。
江戸日本橋界隈の模型です。
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呉服の越後屋の模型です。
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江戸庶民の遊び、歌舞伎の再現です。
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東京ゾーンでは昭和初期の三種の神器が飾られていました。
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東京の江戸から昭和まで、史跡を楽しんだ一日でした。
両国周辺にもこんなに史跡があるなんて、知りませんでした。
家を出て帰るまで、11,600歩の散歩にもなりました。
さて、次は何処を散策するかナ?