OLAF’S Diary in 京都(’08/07/17 山鉾巡行 ④)

もう、観覧席はこの頃になるとガラガラ。
最前列に人がいるだけ状態。

山鉾巡行は以前、17日の「前祭」と24日の「後祭」の2回に分かれていたものが、17日の祭のみになったそうです。
これから、『後祭巡行列』の旗を先頭に後祭りの山鉾の巡行が始まりました。
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<曳き手、舁き手>の説明
山鉾を曳く人数は40~50人程度、山を舁く人数は20人程度である。
男子のみで、原則として成人が曳き子となる。
以前は、近郊の農村部からの奉仕であった。
現在は、各山鉾の町内の住民や事業所に勤める人や、アルバイト(大学生)、そして、最も多いのがボランティアの曳き手である。
毎年、祇園祭山鉾巡行曳き手青年ボランティア委員会にて募集している。
これは、申込資格が18~40才までの男子で、5月中旬に募集している。
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24:北観音山 
応仁の乱前後から南観音山と隔年交替で巡行していた曳山(ひきやま)。当初は屋根がなく、舞台に真松を立て、御神体の観音尊を祀って囃子方を乗せた形であったが、寛政から天保にかけて現在のような形のものに造り替えた。
くじ取らず後祭の一番だった橋弁慶山が北観音山に先頭を譲ったことにより、以後後祭の先陣を切ることになる。
明治十二年に南観音山が復興し、それ以降両観音山の同時巡行が行われている。
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25:橋弁慶山
橋の擬星宝珠に高下駄の歯一枚で立つ牛若丸と弁慶の一騎打ち。
謡曲『橋弁慶』から趣向の山。
有名な牛若丸と弁慶の五条大橋での戦いを表したものである。
狂言『鬮罪人(くじざいにん)』には、室町時代の町衆が祗園祭に出す山の趣向を相談する場面がある。
当時は現在のように山鉾の趣向が固定しておらず、毎年決まったものを出す山と、その都度新しく創作する山があった。
その中で前者の例として橋弁慶山が挙げられており、山鉾の中でも創建の早かった山であることがわかる。
古来くじ取らずで明治四年まで後祭の先頭を巡行していた。
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弁慶と牛若丸。
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見送り。
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26:黒主山
大伴黒主(おおとものくろぬし)が桜の花を仰ぎ眺めている姿を表し、謡曲『志賀』にちなんだものとされている。
大伴黒主は六歌仙の一人として、小野小町との歌争いなどで有名である。
古今和歌集の序で貫之が「大伴黒主はそのさまいやし、いはばたき木おへる山人の花のかげにやすめるがごとし」と記しているので、これも構想の根拠となったのかも知れない。
昔の山は雰囲気を盛り上げるため真松(しんまつ)の山籠(やまかご)の他に添山(そえやま)を飾る場合が多かったが、黒主山にはそれが残っていて、桜の木が立てられている。
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27:八幡山
応仁の乱以前より文献にその名が見られ、延宝年間(1673-1680)に描かれた絵により、鳥居に左甚五郎作の鳩がとまっている今とほぼ同じ型の山だったことがうかがえる。
八幡信仰は古くからあり、他の山鉾でも祇園の牛頭天王(ごずてんのう)に関係のない神を祀ったりしているので、趣向の一つとして当時の人々はこだわっていなかったと思われる。
八幡宮は普段は町会所の庭に祀っているが、金色の社殿は土蔵で保存され、巡行日のみ山台上に飾られる。
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(次ブログへ続く)