OLAF思い出のアルバム(’93/9鳥取砂丘と萩、津和野旅行)

1993年は8月にロシア旅行を楽しんだ。一ヶ月後の9月に鳥取砂丘、出雲大社、萩、津和野、秋吉台の日本の旅行を楽しんだ。思い出のアルバムとしてブログ化しておく。懐かしき山陰の旅。古き良き日本を楽しめた。

9月22日
ブルートレインPM9:20で東京駅を出発。二段ベットの寝台車。途中”あまるべ鉄橋”を経て翌朝7:49鳥取駅着。

9月23日

山陰旅行の第一歩めは鳥取砂丘。鳥取砂丘といわれているのは、千代川河口の東方に広がる面積約五百四十五ヘクタールの浜坂砂丘を意味するそうだ。砂丘といえば、平坦な砂の原を想像しがちだが、意外に起伏がある。正面に見える馬の背状(通称)の小高い丘が、砂丘第二列と呼ばれる砂の頂で、高さ四十七.一メートル。落書が不愉快。風が吹いた早朝は、風紋が見えると聞いていたが、見えず残念。

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今回の旅行の日程表。
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次の訪問先は松江城。

松江城天守閣は全国に現存する12天守の一つで山陰では唯一の天守閣です。
天守閣の大きさ(平面面積)では、2番目、高さ約30mでは3番目、古さでは6番目です。
松江城は慶長16年(1611)初代城主:堀尾吉晴が5年の歳月をかけて完成したものです。
松江城主は、堀尾吉晴、京極忠高(いずれも嫡子無くお家取り潰し)の後、徳川家康の孫に当たる松平直政公が信州松本から移封され、以来明治維新まで、松平氏10代234年間に渡り、18万6千石を領しました

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次は小泉八雲記念館を見学しました。
小泉八雲は、本名をラフカディオ・ハーン(Lafcadio Hearn)と言いギリシャ生れのイギリス人。
明治23年(1890年)雑誌特派員として来日するが、同年、英語教師として松江中学に赴任。
小泉セツと結婚し、熊本の五高へ転任。
明治29年(1896年)帰化し、上京して東京帝国大学で英文学を講じる。
この間『日本瞥見記』『東の国から』などの随筆で、生活に密着した視点から日本を欧米に紹介した。
明治37年(1904年)アメリカで刊行された『怪談』は、日本の古典や民話などに取材した創作短編集である。

この記念館は、(1933)11月29日開館した。
昭和2年、遺族から八雲遺愛の文机、椅子などが松江市に寄贈された。
そして、昭和8年には東京帝国大学の市河三喜博士らの尽力で全国的な八雲記念会がうまれ、八雲の顕彰事業として松江市に記念館を建設することを決め、遺品、史料の収集と建設資金の募集にあたった。

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いよいよ本日のメイン。出雲大社への参拝です。昨夜は夜行で来たので、この頃になってくるとOLAFは少しお疲れ。『眠い。眠い』

出雲の国は、神の国、神話の国として知られています。その“出雲の国”には、今もなお古の神社がいたるところにあります。そして、その中心が「大国主大神(おおくにぬしのおおかみ)」をおまつりする出雲大社(いづもおおやしろ)です。
大国主大神は、「だいこくさま」と申して慕われている神さまです。

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しめ縄は長さ8メートル。重さ1.5トンも有るそうです。
おさい銭は始終ご縁が有りますようにとの事で45円。(ガイドさんが行ってました。)
拍手は通常二礼二拍手一杯ですが、此処では一礼四拍手だそうです。相手に二拍手、自分に二拍手だそうです。

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大きな大黒様の銅像が有りました。

9月24日

今日は、津和野見物からスタートです。
島根県の西端・中国山地の盆地に開ける、旅情豊かな雰囲気の津和野。鎌倉時代に吉見頼行が山城を築いて以来、長きにわたり繁栄した歴史を持っています。「山陰の小京都」とも呼ばれる城下町で、堀を優雅に泳ぐ鯉、武家屋敷とカトリック教会の尖塔が調和した、風情溢れる街並みです。
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  (掘割を泳ぐ鯉)

現在も使われている昔の建物の町役場。
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伝統文化館のサギ舞の人形。
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養老館(民族資料館)
江戸時代に建てられた津和野藩の藩校。西周、森鴎外もここで学んだ。今は剣術道場、書庫などが残るのみ。剣術道場は津和野町立民俗資料館として資料を展示している。

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津和野カトリック教会
昭和6(1931)年、ドイツ人シェーファによって建てられたゴシック建築の教会。武家屋敷が立ち並ぶ殿町にあり、石造りの重厚な建物で、内部のステンドグラスが美しい。

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津和野から萩へ移動。バスで4時間半。山陰は長細い。

東光寺

護国山東光寺は、元禄4年(1691)に3代藩主毛利吉就が萩出身の名僧慧極を開山として創建した全国屈指の黄檗宗の寺院で、大照院と並んで毛利家の菩提寺です。総門、三門、鐘楼、大雄宝殿はいずれも国の重要文化財に指定されており、名刹の面影を残しています。本堂裏の萩藩主毛利家墓所は国指定の史跡で、3代吉就から11代までの奇数代の藩主とその夫人及び一族、関係者の墓があり、墓前には藩士が寄進した500余基の石灯籠が立ち並んでいます。

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伊藤博文の像

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松下村塾
木造瓦葺き平屋建ての50㎡ほどの小舎で、8畳一室と、後に吉田松陰が増築した4畳半一室、3畳二室、土間一坪、中二階付きの部分から成る。もともと叔父の玉木文之進が天保13年(1842)に自宅で私塾を開いていたのが始まりで、ついで久保五郎左衛門が継承し教育にあたった。安政4年(1857)、28歳の松陰がこれを継ぎ、塾を主宰することになった。松陰は、身分や階級にとらわれずに門下生として受け入れ、わずか2年半の間ではあったが、久坂玄端、高杉晋作、伊藤博文、山県有朋、山田顕義、品川弥二郎ら、明治維新の原動力となり、明治新政府に活躍した多くの逸材を育てた。国の史跡に指定されている。

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千春楽にて宿泊。

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9月25日

青海島
山口県の北西部、北長門海岸国定公園の中心に位置する青海島は、周囲約40キロメートル、面積18,8平方キロメートル。
大正15年には名勝及び天然記念物に指定されました。
その北海岸には荒波に侵食された断崖絶壁や、洞門、石柱があり、コウモリの形をしたコウモリ洞、洞内の岩が黄金色に見える黄金洞等が見えました。

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秋吉台
山焼きで有名な秋吉台に来ました。秋吉台ははるか昔、遠い海でサンゴ礁として誕生しました。それから約3億5千万年、ドリーネや鍾乳洞が発達した石灰岩の台地、カルスト台地となりました。石灰岩の中にはサンゴ、ウミユリなどの地球と秋吉台の長い歴史を示す化石が見つかります。

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   (展望台から見たカルスト台地。)

秋芳洞
秋吉台の地下100m、その南麓に開口する東洋屈指の大鍾乳洞「秋芳洞」は大正15年昭和天皇が皇太子の御時、本洞を御探勝になり、この名前を賜ったものです。
秋吉台カルスト展望台まで徒歩5分で秋芳洞正面入り口に着きます。
秋芳洞正面入口から黒谷口までの高低差は40mあり、秋芳洞正面入口から入ると「上りコース」。秋吉台と秋芳洞を結ぶ「エレベーター」から秋芳洞へ入ると、秋芳洞正面入口から700mの地点に下ります。百枚皿は水が流れていてとても綺麗でした。

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今回の旅はこの後関門海峡を渡って福岡空港から帰ってきました。山陰地方は横に細長く長時間のバスの旅でした。