OLAF思い出のアルバム(’91/11 伊豆の旅)

91年の11月伊豆松崎、堂ヶ島を旅した。なんとなく温泉切れがしてきたのと松崎プリンスホテルのフランス料理が食べたくなり、出かけた。その写真をスキャナーで取り込み、またブログ化しておく。もちろん、OLAFの旅である。
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(松崎プリンスホテルのベランダから松崎湾を望む。)

松崎プリンスホテルは第何作かは忘れたが『釣りバカ日誌』でスーさんが釣りをした海岸。
行ってみたかったホテル。

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プリンスホテルから海岸沿いを散歩をした。神社があったり、なかなかのもの。夕食前の一時。
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今はこのプリンスホテルは経営が変ってしまったとネットの載っていた。

松崎伊東園ホテル(旧松崎プリンスホテル)
全室オーシャンビュー。
窓を開けると、波の音が聞こえます。
■松崎プリンスホテル 9月いっぱいで営業休止 (06月14日 17:21)
伊豆箱根鉄道は14日、松崎町にある松崎プリンスホテルを赤字続きのため9月いっぱいで営業を休止にすると発表しました。
伊豆箱根鉄道は、県内に5つのホテルを所有していますが、特に松崎プリンスホテルは、開業当初の19年前から赤字続きで累積赤字がおよそ25億円に達すると言うことです。
このため伊豆箱根鉄道は、事業の再編計画の中で、今年9月いっぱいで営業を休止して経営移譲や売却などを検討していくと言うことです。
地元経済や雇用などの影響が心配される松崎町の深沢進町長は「存続をお願いに行く矢先だったのに非常に残念だ」と話しています。
(静岡第一テレビホームページより)


    http://www.ne.jp/asahi/wps/aoshima/matup.html

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翌日会計をして観光へ出発前に散歩。
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今日の観光は、松崎町が生んだ鏝絵の名人入江長八の作品を見ることが第一です。
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浄感寺
漆喰鏝絵の名工入江長八の菩提寺で、本堂が「長八記念館」となっております。
「八方にらみの龍」や「飛天」などが展示され、また御拝柱、虹梁や海老虹梁には江戸時代彫刻の名人石田半兵衛邦秀の透かし彫等が施されています。
これらの作品は松崎町文化財に指定されています。
当山中興正観上人が寛政末期頃より塾を開き、当山は松崎町の学文発祥の地と言われています。
土屋三餘(三餘塾)、下田に塾を拓いた漢学者高柳天城、彫刻師石田半兵衛邦秀、入江長八がここで学びました。古来より災いを除き幸運を招く寺として名高いです。


入江長八
通称”伊豆の長八”といわれる漆喰芸術・鏝絵の名工。天祐、乾道と号した。
文化12年(1815)8月5日、当時の伊豆国松崎村明地(現在・松崎町)生まれ。
父は兵助、母はてご、長八はその貧農の長男だった。
器用でりこうなこども長八は幼いころ、菩提寺の浄感寺へよく遊びに行き、正観和尚(「本多正観」)と妻のたきゑから、大いにかわいがられたという。
たきゑは長八の家の本家にあたる旧家で、淵の大屋と呼ばれた入江家からこの寺へ嫁いだひと。
やがて浄感寺で開かれていた塾へも通うようになったが、そのころから長八は手先の器用なことで知られ、自分でもまた大きくなったら何かで腕をみがき、身を立てたいものだとかたい志を立てていたようだ。
そして12才のとき、村の左官棟梁・関仁助に弟子入り、その家に住み込んで漆喰を練る仕事なども手伝うようになった。
あるとき兄弟子が土蔵の裏壁に、漆喰で半球形の・折釘の座・を長時間かかって塗りつけているのを見た長八は、棟梁と兄弟子が仕事場を離れたすきをみはからって、古いお椀の中へ漆喰を詰め、信じられないほどの速さでみごとな・折釘の座・をつくり、まもなくもどってきた2人をびっくり仰天させた──というエピソードも残っている。

江戸へ出て日本画を修行

その漆喰細工に絵の技法を取り入れてみたいと、念願していた長八はついに意を決して19才のとき江戸へ出、川越在住の狩野派の絵師・喜多武清の弟子となって、3年間みっちりと修行した。
そして漆喰に漆を混ぜると、思いどうりのあざやかな色が出せることや、鏝絵という新分野の技法をくふうした結果、長八独特の芸術的ジャンルをひらき、このころから堰を切ったように数多くの名作を生み出した。
特に長八の名が江戸中に知れ渡ったのは、日本橋茅場町の不動堂が再建されたとき。
多くの職人の中から腕を見込まれて選ばれた長八は、表口御拝柱の左右に実にみごとな迫力のある1対の竜を描き、一躍”名工”とうたわれるようになった。26才のときである。
それからの長八は、浅草観音堂、目黒祐天寺、成田不動尊など各地に名作を残し、ますます名声を博したものの、江戸でつくられた作品は関東大震災によって大半が焼失。
現在、東京方面で残っているのは、足立区・橋戸稲荷、品川区・高輪の泉岳寺、東品川の寄木神社、千葉県・成田山新勝寺などに約45点。
郷里松崎では、昭和59年7月オープンした「伊豆の長八美術館」に約50点、浄感寺の「長八記念館」に約20点が展示公開されているほか、重文・岩科学校、春城院、三島市・龍沢寺にも作品が所蔵されている。
明治22年(1889)10月8日、深川・八名川町の自宅で歿。
辞世の句は、
「わが秋や月一夜も見のこさず」
74才だった。墓は松崎・浄感寺と、東京・浅草の正定寺にある。


http://www.town.matsuzaki.shizuoka.jp/FMPro?-db=m_faq_02.fp5&-lay=web&-format=p01f.html&-max=all&-sortfield=NO&NO=45&-find

東京に来ていたとは、知らなかった。

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なまこ壁通り
江戸末期の建物で、火災や盗難予防に役立ち、保温・防湿・防虫にもなると言われています。格子模様が古い歴史と調和し、独特の雰囲気をかもしだしています。   

漆喰鏝絵
鏝絵とは、左官職人が鏝を使い、日本古来の建築素材である漆喰をレリーフ状に盛り上げ、民家の戸袋や壁、母屋や土蔵の妻壁や持ち送りに絵柄を塗り出したもので鏝絵には家内安全、火災除け、不老長寿といった施主の願いを見事に表現したものです。本来鏝絵は建物装飾から始まったものですが長八の鏝絵は、左官本来の鏝絵に絵具で彩色するという絵画の手法を取り入れて描かれたもので左官本来の建物装飾から額縁、塑像、掛軸にまでおよび、明治22年に亡くなるまでに数多くの漆喰鏝絵を残しています。鏝絵は本来屋外に造られているものがほとんどですが、現存する長八作品多くは室内装飾が主で絵画的に室内に飾るという点からも彼の作品が絵画的要素を意識したものということが、こんなところからもうかがえます。多くは漆喰の白色のままですが、中には華麗に着色したものもあります。

 http://www2.manabi.pref.yamanashi.jp/edu/0305002704/

長八美術館
伊豆の長八美術館は、左官の名工入江長八の偉業を後世に伝えるため昭和59年にオープンしました。長八の漆喰鏝絵は、左官の技術に日本画の狩野派の技法を取り入れ、西洋のフレスコに勝るとも劣らない独特な壁画技術として芸術界でも高く評価され、また美術館の建物も「江戸と21世紀を融合した建物」として注目されています。

http://www2.izu-kankou.or.jp/izu/info/info0040.asp?id=223050&d=3&yid=C397275916

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ほぼ、松崎の長八の鏝絵を見たので堂ヶ島へ移動する。遊覧船であの有名な天窓洞 を見物に行く。

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堂ヶ島天窓洞
堂ヶ島最大の魅力である天窓洞は、白い凝灰岩(安山岩質)からできており、低い半島状をなしていて、その地下は蜂の巣のように海蝕トンネルがあけられている。
この洞の入口は、外洋(駿河湾に面して)二門(南口と西口),さらに一つの入口(東口)が山の手側の国道に向かって開き、そこに小さな浜(礫)をつくっている。
洞の内部は大体左右こ本の横穴に分けられ、このこ本が又井の字状に連結され、すべて満々たる海水をたたえている。
右方の洞窟は幅も広く、長さ147mに達し、中央は天井が丸く抜け落ち天窓をなし、洞内を明るくしているため船が自由に航行できる。
また、この洞内には鎌倉洞と呼ばれる穴があり、伝説によれば、この洞は鎌倉まで続いていると言われている。
頼朝が追手に追われた時、丁度干潮でこの穴に隠れた。
この様子を見た蜘蛛がその入口に巣を張ったため、追手はこの穴に人の隠れた様子なしとみて、頼朝は難を逃れ、そして急遽鎌倉宛の密書をしたため、底しれぬ洞の奥に向かって投げ入れたと伝えられている。
今でもこの洞は、頼朝公の伝説を秘めたまま夜光虫の栖となっている。
昔から、この堂ヶ島を多くの人々が訪れているが、次の短歌も、昭和10年の早春、与謝野鉄幹・晶子夫妻が堂ヶ島を訪れた際に詠まれたものである。
  ”島の洞 奥に窓あり 潮ゆれて
         孔雀の色を 我が船に投ぐ”   鉄幹
  ”堂ヶ島 天窓洞の 天窓を
         光りてくだる 春の雨かな”   晶子

http://www.town.nishiizu.shizuoka.jp/hp/page000000100/hpg000000074.htm

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1泊2日の旅だったが、久し振りの温泉と長八美術館、堂ヶ島遊覧船と密度高く楽しめた。