OLAFの長良川鵜飼いと岐阜城見物(’07/6)

梅雨入り宣言が出てしまう前の6月初め、鮎も食べたいので岐阜長良川の鵜飼いを見に行った。良い天気の中での船上での食事と鵜飼い見物、翌日は金華山頂上の岐阜城を見物してきた。

今回は、大きなトラブルに遭遇。ななんと!新幹線で写真を撮ろうとしたら愛用のデジカメが壊れていて撮影不能状態判明。急遽、携帯TELのカメラで撮影実施。写真の質が今一つ。がっかり!!

新幹線で岐阜へ向かう。新幹線に乗って即お昼ご飯と一杯。幕の内とオツマミ用の鳥の唐揚げ。一杯はウイスキーの水割り。いいね~~~。
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名古屋で東海道線大垣行きに乗り換え、岐阜を目指す。在来線も綺麗な電車。
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まもなく、JR岐阜駅の到着。岐阜駅は初めて降り立つ駅。駅のコンコースの壁面は鵜飼いと岐阜城のステンドグラス風デザイン。やっぱりこれが岐阜の売り物と見える。
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駅からタクシーで岐阜の町を通り、長良川を渡り、鵜飼いのパックをお願いして有る岐阜グランドホテルへ。タクシーの運転手さんいわく『岐阜の町は繊維関係企業中心の町。今は構造的不況で元気のない町になってしまって。繁華街の柳ケ瀬も寂れてしっまた。』とか。
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ネットで申し込んだホテルはどんな所か若干の心配もあった。でもなかなか良いホテルだった。これは期待できそう。まづは部屋の中で記念撮影。
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長良川の向こう岸には金華山が聳え、頂上には岐阜城が見える。明日は是非登って見よう。
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ホテルの中をブラブラしてみる。ロビーには鵜飼いの説明がされている。鵜の剥製。鵜船。篝火を焚く篝と篝棒。等も飾って有り、鵜飼いへの期待が高まる。
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5時50分、ロビー集合。船着場へ移動。ホテルの前の長良川岸へ。
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数隻の船が繋がれている。いよいよ乗船。何でも秋篠宮殿下が鵜飼いを楽しまれた船だとか。乗船する人数によって船を決めているようだ。乗船が終了すると即、上流に向け出発。
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今出てきた岐阜グランドホテルが夕暮れに映えている。
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上流の中洲に船を着岸させ夕食が始る。7時45分が鵜飼いの開始とか。それまでに夕食を食べ終えるスケジュールになっている。その後もぞくぞくと遊覧船が到着し宴会を始める船、家族連れ中心の船等ずらっと並ぶ。鮎の塩焼きをやっている船も居り、焼きたての塩焼きを届けてくれる。
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焼きたての鮎はさすがに美味しかった。
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食事中、鵜船が上流へどんどん上がっていく。そんな中、長良川の鵜飼いの説明が始る。

<説明の内容は、こんなものでした。>
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鵜飼は漁師が鵜を遣い魚を捕える漁法で、およそ1300年ほど前から行われていましたとの事。
今では、日本全国で十数か所で行われているとの事。
但し長良川の鵜飼いは一人の鵜匠が十数羽の鵜を扱い、技術的には最高と胸を張ってました。宮内庁職員の鵜匠は長良川だけとの事。
鵜伝統漁法を今に伝える鵜匠は世襲で受け継がれ、長良川には現在6人いるそうです。
正式な職名は宮内庁式部職鵜匠といい、長良川の鵜飼用具一式122点は、国の重要有形民俗文化財に、長良川鵜飼漁法は岐阜市重要無形民俗文化財に指定されているそうです。
夕方、装束を身にまとった鵜匠は、とも乗り、なか乗り、そして鵜と共に鵜舟に乗り込み上流へと向かい、辺りが暗やみに包まれるのを待ちます。漁を始める前には、川を下る鵜舟の順番を、くじで決めるそうです。
やがて上流からかがり火に照らされた鵜舟が「ホウホウ」という鵜をはげます鵜匠の掛け声とともに現れます。
鵜飼の圧巻「総がらみ」は、6艘の鵜舟が横一列になり、浅瀬に鮎を追い込み巻き狩りをする漁法のことで、「ホウホウ」とかけ声をかける鵜匠と、鵜、そして鵜舟が一体となって鮎を追い、鵜飼はクライマックスに成るそうです。


7時45分。開始の合図の花火が上がります。周りの旅館は明かりを消して鵜飼いを盛り上げます。
私たちの遊覧船は、最後に降りて来る鵜船と並走するそうです。(並走する鵜船がじゃんけんで負けてそうなったとの事。やはり先頭のほうが鮎が沢山摑まえる事が出来るそうです。
「ホウホウ」と言う掛け声。船端を「タンタン」とたたく音。明るく輝く篝火。傍によると熱さを感じるぐらい。
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(携帯TELの写真です。よく見えません。ネットから転載します。)
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最後に鵜船が6隻みんな集まって『総がらみ』が始りました。横一列に並んで、漁が始りました。
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(この写真も携帯TELの写真です。よく見えません。ネットから転載します。)
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壮観です。感動的です。鵜匠は腰を折って船べりから大きく乗り出し、鵜が動きやすいよう手綱を調整しています。まさに鵜と一体となった動きです。最後に鵜匠が鵜を船に引き上げます。遊覧船の傍に来てくれて、一羽一羽引き上げ餌を与えて、籠に入れました。この時期鵜は一日一食でお腹を空かせて有るとの事。首にかけられた紐は指一本程度の隙間しかなくそれより小さい魚が捕れれば鵜は食べる事が出来るとか。
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感動的な鵜飼いでした。そうそう、岐阜グランドホテルの温泉は”長良川温泉”と言う湯船は赤茶色の鉄分が酸化した様な温泉でした。白湯湯船も合ってそこは、透明な温泉でした。もちろん、赤茶色の温泉にじっくり浸かって温泉を楽しみました。

翌日は、金華山へロープウエイで登り、岐阜城を見物に行きました。
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<岐阜城の歴史は以下のようなものらしい。>
金華山山頂に最初に砦が築かれたのは建仁年間(1201~1204年)、鎌倉幕府執事の二階堂行政によるといわれています。
その後、美濃の守護土岐氏の筆頭家臣斎藤氏が居城とするものの、下克上により斎藤道三の手に。
1567年には道三の孫である龍興を倒した織田信長が岐阜城を手に入れ、この地方一帯を平定。
名をそれまでの稲葉山城から岐阜城へ改名し、後に安土城が建設されるまでの10年ほどの間、天下統一の拠点となりました。
しかし1600年、関ヶ原の合戦の前哨戦で、信長の孫、秀信が西軍に味方したため東軍に攻め入られ落城。翌年岐阜城は廃城となり天守閣、櫓などは加納城に移されました。
現在の城は昭和31年に鉄筋コンクリート造り、3層4階建てとして復興されました。平成9年には大改修を行い、岐阜市のシンボルとなっています。

ちなみに、斉藤道三はネットによりますと

「美濃のマムシ」と恐れられ、天下の「梟雄(悪逆非道な英雄)」として知られる「斎藤道三」。
彼はまさに、戦国時代における「下克上(下の者が目上の人を討ってのし上がる事)」の代名詞と言える人物です。
一介の油商人から、一国一城の主にまで登りつめた斉藤道三は、まさに戦国時代の象徴の1つであるとも言えるでしょう。
道三は信長への 「美濃一国譲り状(美濃の国を譲り渡すと言う書状)」 を 織田家 へ届けさせると、多勢に無勢の戦いの中で、息子 義龍と対峙します。
最後の戦いで道三は、義龍の見事な采配を見て、「虎を猫と見誤るとはワシの眼も老いたわ。しかし当面、斉藤家は安泰」 と語ったと言います。
そして戦いに破れた道三は、そのまま命を落とします・・・ 享年 62 才。
度重なる下克上によって油売りから戦国大名にまで登った斎藤道三は、自らの息子の下克上によって、その生涯を断たれる事となりました。
戦国時代をそのまま象徴した人生であったといえますが・・・


ロープウエイで山頂へ。見晴らしは抜群。
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かなり急な階段を登り、岐阜城を目指す。暑い!!歩く事10分。お城が見えてきた。
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お城は建て替えられたもの。しかし、この石垣は昔のままであろう。こんな石を人間と馬で頂上まで持ち上げ積んだのであろうか?大変な思いであったろう。
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天守閣から表が見られる。この山城は裏手を長良川で仕切られ、とても急な山頂に有り、堅固なお城であったろう。
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ロープウエイの駅まで戻り、下山。
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帰りは、名古屋駅で味噌カツでも食べようかと味噌カツ屋へ行ってみると、長蛇の列。諦めて味噌カツ弁当を買って、新幹線で食べながら帰ってきた。
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天気にも恵まれ、なかなか、楽しい旅だった。