我が家のOLAF

アクセスカウンタ

zoom RSS OLAFの両国散策 (’16年3月18日 両国街歩き)

<<   作成日時 : 2016/03/19 09:52   >>

トラックバック 0 / コメント 0

三寒四温が続く中、本日は20℃を記録する4月頃の陽気だと言う天気予報。
桜の開花予報も今日か明日かという段階で両国を散策する事にした。
桜の開花予想には「600℃の法則」が有るそうです。
「600℃の法則」とは、2月1日以降の毎日の最高気温を足して、累計値が600度ほどで、桜が開花するという法則だそうです。
昨日までに580℃有るそうです。
従って今日20℃を超えると開花するかもしれないとTVで言っていました。
コートは持って歩ける天候で暑い位。


JR両国駅西口を10時半に出発。
駅近くのビルの1Fの墨田区の観光案内所によって散策地図を手に入れる。
その地図に従って
@回向院へ。
明暦3年(1657年)に江戸の町を焦土と化した「明暦の大火(振袖火事)」の犠牲者は10万人。その大半は身もとの分からない人だった。
江戸幕府は隅田川の東岸に「万人塚」をもうけ、徳川家の菩提寺の増上寺二十三世・遵誉に命じて無縁仏の冥福を祈る法要を行わせたという。
このときに建立された堂宇が回向院のはじまりとなった。
また、回向院で忘れてはならないのが相撲。
江戸時代の公共社会事業の資金集めを目的としての勧進相撲の形態がとられていたが、その勧進相撲の中心が回向院となっていた。
初めて行われたのは明和5年(1768年)で、天保4年(1833年)から、明治42年に旧両国国技館が完成するまでは、春秋2回の興行がおこなわれていた。
境内には昭和11年に相撲協会が歴代相撲年寄慰霊の為に建立した巨大な「力塚」があり、新弟子が力を授かるようにと祈願する姿も見られるようになった。
画像

鼠小僧次郎吉の墓。
時代劇で義賊として活躍するねずみ小僧は、黒装束にほっかむり姿で闇夜に参上し、大名屋敷から千両箱を盗み、町民の長屋に小判をそっと置いて立ち去ったといわれ、その信仰は江戸時代より盛んでした。
長年捕まらなかった運にあやかろうと、墓石を削りお守りに持つ風習が当時より盛んで、現在も特に合格祈願に来る受験生方があとをたちません。
画像

画像

回向院の山門が見えます。その左に見える高層ビルとマンション「両国シティコア」が旧両国国技館があった跡に建った建物です。
中庭にある相撲の土俵を模した円形が描かれています。
画像

次はA旧両国橋・広小路跡。
旧両国橋は現在の両国橋の下流約50メートルのこの辺りに架かっていました。
完成は万治2年(1659)12月。明暦3年(1657)の大火が大災害となったため、幕府が防災上の理由から架け、武蔵と下総の国を結ぶ橋なので、両国橋と呼ばれました。
橋の上は、四方が眺望できる絶景の場所で、近くは浅草の観音堂、遠くは常陸の筑波山まで見えたようです。
橋が架かったことで交通の要衝となるとともに、橋の袂には火除け地としての広小路が設けられました。
西側(日本橋側)は「両国広小路」といわれ、芝居小屋や寄席、腰掛茶屋が立ち並び、東側は「向こう両国」と呼ばれ、見世物小屋、食べ物屋の屋台が軒を連ねる繁華街となりました。
寛保2年(1742)の調査では1日に2万人以上が往来したとされています。
今ではこの看板が立っているだけでした。
画像

B春日野部屋の前を通って江島杉山神社へ行く。
なかなか立派な相撲部屋だ。
1925年(大正14年)5月場所に現役を引退した出羽海部屋所属の横綱・栃木山が、引退に伴い自身の養父である行司・木村宗四郎が所有する年寄名跡を継承して年寄・8代春日野を襲名し、当時「分家独立を許さず」の不文律があった出羽ノ海部屋から例外的に独立を許されて春日野部屋を創設した。
8代春日野は横綱・栃錦などの関取を育て上げた。
画像

途中「一ノ橋」を渡ってC江島杉山神社へ行く。
「一ノ橋」とは何の変哲もない普通の橋なのだが、赤穂浪士が吉良邸に討ち入り、見事本望を果たして泉岳寺に向かう時、最初に渡った橋だという。
画像

江戸幕府第5代将軍徳川綱吉に針治療を奉った杉山検校が、本所一つ目に土地を拝領し弁財天の社を建立したことに始まります。
社殿の南側には、杉山検校が断食祈願した江ノ島の岩窟を模した洞窟があります。

神社はコンパクトでこじんまりとしたのが多いこの界隈の中では、こちらはコンパクトながらもしっかりとした施設をもった神社です。
特に注目なのは、神社の名前の通り、藤沢の江の島弁財天と江戸時代の鍼師の杉山和一が祀られており、江の島の岩屋を模した洞窟が再現されているのは非常に興味深く参拝させてもいただきました。
また、この杉山和一が現在の鍼術の原型の術式を考案したとのことで、この地が鍼師やその関係の方にとっては聖地であり、身が引きしまりました。
画像

画像

画像

緋寒桜?
境内で綺麗に咲いていました。
画像

D吉良亭裏門跡。
当時約2500坪の広大な敷地だった吉良邸。
赤穂浪士討ち入りの際に、大石主税以下24名が侵入した裏門の場所にあるマンションの前には、現在高札が建てられています。

画像

E吉良亭跡。
吉良邸は、浅野匠頭守による殿中刃傷事件の後の元禄14年(1701)9月3日に吉良上野介義央が当地を拝領して建設された吉良家の上屋敷で、坪数2,550坪ありました。当地で赤穂浪士による仇討ち事件が起こり、その名所を惜しんだ地元の両国3丁目町会有志会が発起人となったのがきっかけとなり、本所松坂町公園として残されています。
公園の周囲は高家の格式をあらわす海鼠壁長屋門を模した塀と門で,園内に吉良首洗い井戸と,これも邸内にあった松坂稲荷社があり,塀の内壁に吉良邸の見取図や義士関係の絵などの銅板がはめこまれている。
画像

画像

画像

F芥川龍之介文学碑。
芥川龍之介は、明治25年(1892)3月1日、東京市京橋区入船町に新原敬三、ふくの長男として生まれました。
辰年の日辰の刻に生まれたのにちなんで龍之介と命名されました。
生後7ヶ月の時、母ふくが突然発病したために、本所区小泉町15番地(現両国3丁目)に住んでいたふくの長兄芥川道章に引き取られ、13歳の時芥川家の養子となりました。
芥川家は旧幕臣で江戸時代からの名家で、道章は教養趣味が深く、文学、美術を好み、俳句や盆栽に親しむとともに南画をたしなみ、一家をげて一中節を習い、歌舞伎を見物するなど江戸趣味豊かな家庭でした。
本所は龍之介の幼児時から少青年期までの大事な時期を育んだ場所で「大道寺伸輔の半生」「本所両国」などの作品にその一端を見ることが出来ます。

この文学碑はりゅうのすけの代表作の一つである「杜子春」の一節を引用したものです。
この両国の地に成育し、両国小学校で学んだ近代日本を代表する作家、芥川龍之介の人生感を学ぶ氏の文才を偲ぶものとして両国所学校創立百十五周年の記念事業として、平成2年(1990)10月に建立されたものです。
画像

G芥川龍之介生育の地。
大作家「芥川龍之介」の生育の地は本所にありました。
芥川龍之介は明治25年(1892)3月1日、東京市京橋区入船町8-1に牛乳搾取販売業耕牧舎を営む新原敏三・ふくの長男として生まれました。
辰年辰の日辰の刻の生まれにより龍之介と命名されたと言います。
生後7ヶ月で生母ふくの病のため、当時本所区小泉町15番地に住んでいたふくの長兄、芥川道章に引き取られ、後13歳の時、芥川家の養子となりました。
画像


JR総武線の南側を散策してきたが、これから線路の反対側北側を散策する事にした。
H国技館。
現在大阪場所の最中。
話題は「先場所10年ぶりに優勝した日本人力士”琴奨菊”が再度の優勝を果たし横綱になれるかどうか?」だ。
そこで、初めに国技館の相撲博物館へ行く事にした。

そこでは、”滋慶学園グループ”の卒業式が行われていた。
ネットによると「滋慶学園グループがミッションとして掲げる職業人教育は、専修学校法が施行された1976年、厚生省(現厚生労働省)認可の歯科技工士養成校から始まりました。
以来39年。実学教育・人間教育・国際教育を滋慶学園グループの建学の理念に、現在、大阪にある滋慶医療科学大学院大学をはじめ、専門学校、高等専修学校など、全国70校の教育機関で、業界に直結した専門教育を実践しています。
たえず時代の変化と社会のニーズを見つめながら、500職種を超える人材を養成、これまでに国内外を問わず様々な産業界に20万人以上の卒業生を輩出してきました。
また、人間教育として、キャリアに対する意識の形成や将来のキャリア設計をフローとしてとらえた「キャリア教育」、さらにグローバル人材の育成に呼応する国際教育に力を注いでおり、常に社会から求められる高度専門職業人の育成を目指しています。」との事。
日本全国に専門学校を展開している教育機関の様だ。
画像

I相撲博物館。
「桜と大相撲 〜相撲博物館でお花見〜」と言うテーマで展示が行われていた。
ネットによると「日本相撲協会の徽章は、桜の花をデザインしたものです。
また53代横綱・琴櫻をはじめ、桜の字をしこ名に用いた多くの力士たちが活躍してきました。桜は化粧廻しの意匠として使用されることも多く、厳しい勝負が繰り広げられる土俵に彩りを添えています。
一方で江戸時代から明治時代には、様々な絵師により人気力士たちが花見をする姿が描かれました。
毎年恒例となっている靖国神社の奉納相撲では、満開の桜のなかを歩く力士たちの姿を目にすることができます。
今回は春を迎える時期に、大相撲と大変にゆかりが深い桜を特集いたします。
春の到来を感じながら、どうぞごゆっくりご覧下さい。」との事。
画像

(ネットより転載)
東都花見勝景ノ内 向島(三代歌川豊国 画)
弘化3年(1846)。大関・剣山を中心に東方の力士らが花見を楽しむ姿を描いたもの。
向島の桜は享保2年(1717)に徳川吉宗が植樹したことにはじまる。
木母寺(もくぼじ 当時は墨田堤通沿いにあった)門前から寺島村(現在の堤通、東向島)までの隅田川堤に100本が植えられ、墨堤(隅田川の土手)の桜と呼ばれて名所となった。
画像

相撲取りを題材にした浮世絵が有ったのには驚いた!!

満開の桜のなかを行く力士たち
平成27年(2015)4月3日、靖国神社の奉納相撲にて。参拝のために本殿へ向かう幕内力士たち。
左から69代横綱・白鵬、70代横綱・日馬富士、大関・稀勢の里。
画像


J旧安田庭園。
もと常陸国笠間藩主本庄因幡守宗資により元禄年間(1688〜1703)に築造されたと伝えられる。
かつては隅田川の水を引いた汐入回遊式庭園として整備される。
明治維新後は、旧備前岡山藩主池田侯の邸となり、次いで安田善次郎氏の所有となりました。
氏の没後大正11年東京市に寄附されました。
関東大震災後、太平洋戦争を経て東京都から墨田区に移管され、全面的改修を行い、復元、開園しています。
現在は、ポンプにて人工的に潮入が再現されている。

画像

画像

亀さんも一杯いる。
画像


K横網町公園。
この公園には「東京都慰霊堂」や「復興記念館」も存在しています。
そのいずれもが、この公園の歴史を物語っています。
大正11年(1922年)、東京市は陸軍被服廠の移転に伴い、跡地を買収し公園の造成を進めていました。
その最中に発生したのが、翌12年9月1日の関東大震災。このとき、この界隈の人々が被服廠跡に避難しましたが、運び込まれた家財道具を伝って火が広がり、多数の焼死者が出ました。
東京市では、これらの遭難者の霊を供養し、さらに東京を復興させた大事業を記念するために、公園内に震災記念堂(現東京都慰霊堂)と復興記念館を建てました。
1945年、東京は第二次世界大戦により再び焦土と化し、多くの犠牲者が出た。
特に3月10日の東京大空襲では多くの犠牲者が出た。
当横網町公園をはじめ、多くの公園に犠牲者が仮埋葬されていた。
その後第二次世界大戦で身元不明の遺骨などを当公園にある納骨堂を拡張し「震災記念堂」に合祀されることになった。
そして1951年に「東京都慰霊堂」と改称され現在にいたっている。
画像

画像

画像

画像


春の天候の中、両国散策をしてみた。
なかなか面白い散策だった。
子の散策は二回目だが前回行かなかった所にも行けた。
(前回の散策ブログ)
http://olaf-mama.at.webry.info/200901/article_15.html

墨田区は色々観光資源を活用している。
地図なども整備してあるし、街中の掲示板などもしっかりしている。

私の住んでいる区等は此処まで整備されていない。

さて、遅めのランチにでもしましょうか・・・

テーマ

関連テーマ 一覧


月別リンク

OLAFの両国散策 (’16年3月18日 両国街歩き) 我が家のOLAF/BIGLOBEウェブリブログ
文字サイズ:       閉じる