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zoom RSS OLAFのすみだまち歩きコース16(’15年11月6日 〜墨田の古道を歩こう〜

<<   作成日時 : 2015/11/09 08:12   >>

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今日も晴天。
すみだまち歩きコース16を歩いてこよう。
カメラ、万歩計、ペットボトルを持って出かけた。


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今日の道は「鎌倉街道下の道」だそうだ。

鎌倉街道は、各地より鎌倉に至る道路の総称。特に鎌倉時代に鎌倉政庁が在った鎌倉と各地を結んだ古道については「鎌倉往還」や「鎌倉道」とも呼ばれ、また「鎌倉海道」とも書く。
一方で、現況の道路で「鎌倉街道」や「かまくらみち」と通称される路線も存在する。
そうだ。

墨田区は大きく分けると、昔の『向島区』と『本所区』に分けられます。二つはその成り立ちも歴史も随分と異なります。
墨田区の南側にあたる旧本所区はさらに南、江東区の深川地域と同様に江戸時代に新しく開墾された土地です。
碁盤の目のように土地を区分し、水路を作り、交通の便も発達しました。
明治維新後の関東大震災、さらに太平洋戦争で焼失した場所も多いが、東京の復興とともに道路も拡張され発展してきたようです。

一方、北側の向島区は太古より丘陵地でかつては田畑も多く、農村として発展していったため、大規模な開発は行われず、道路整備も本所エリアとは異なり、昔の面影をそのまま残した形となっています。
それがよかったのかどうかはともかく、町並みも昔のまま。
向島、隅田、京島、押上と長屋や小さな家が軒を並べて、狭い路地が数多く残ります。
東日本大震災のような大規模災害がきたら一体どうなってしまうのだろうかと危惧されます。このエリアを通る下ノ道も旧街道の面影を残し、そして懐かしさを覚えるこの道です。

鐘ヶ淵地域に現存する、古代にできた「古代の官道」、鎌倉時代にできた「鎌倉街道下の道」、江戸時代にできた「墨堤通り」、大正時代にできた「鐘ヶ淵通り」の4本の道が有るそうです。

@墨堤通り沿いに、説明板があった。
此処がスタート地点だ。
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A下稲荷神社。(墨田区墨田2-3-8)
東京都墨田区墨田2-3-8にある下稲荷神社。創建時期などは不明。
かつての隅田村に­あった稲荷社二社の内の一社だといいます。
殺風景な境内の隅に庚申塔が二つあります。
街の中の昭和の雰囲気。
がっちり鍵が掛けられていてこれが神社と言った雰囲気。
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手水には水が入っていません。
でも、手ぬぐいは掛かっていました。
しめ縄は新しそうだ。
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☆首塚地蔵尊。
次は真言宗の寺、月光山正福寺だ。
その境内に首塚地蔵尊があった。
首塚地蔵尊

説明文によると
地蔵菩薩 ご縁日 毎月4日
ご真言 オン カカカ ビサンマエイ ソワカ
天保4年(1833年)洪水の危険をふせぐための隅田川橋場附近の川浚い工事の際に、川床より多くの頭骨が発掘された。
関係者は当山第16世住僧宥照和尚とはかり、ここに合葬、碑をたてて「首塚」といったと伝えられる。
この頭骨の由縁については諸説あるが、爾来、歴代住僧並びに信者により護持され、今日にいたる。
この縁で、首から上の病いに功験があるからと、参詣の香華がたえない。
このお堂は、真言宗中興の祖興教大師(覚鑁上人)850年御遠忌(平成4年12月12日)記念事業の一環として、平成2年8月壇信徒一同により再建、奉納されたものである。
との事。
頭蓋骨は新田義興軍と足利尊氏軍の石浜合戦の没者だと言われています。
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B真言宗の寺、月光山正福寺。(墨田区墨田2-6-20)
正福寺は「真言宗智山派」という宗団に属しています。
真言宗は今から1200年ほど前に弘法大師空海(774年‐835年)によって開かれました。
1200年以上の歴史を経て現在はその血脈を引き真言宗を名乗る宗団は100を超えています。
(現在、正福寺は新本堂新築のため工事が進められております。
竣工は来年(2015年)秋頃の予定です。)
との事。
正福寺山門。
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門前には和みの像も建っていますが和みどころか正直不気味です。
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C円徳寺(墨田区墨田5-42-17)
醍醐山円徳寺といい曹洞宗に属します。
はなやかな朱の山門が目立ちます。
寺伝では慶長18年(1613)に文京区駒込にある吉祥寺13世離北良重和尚の開山としています。
本尊は薬師如来です。
なお、葛西誌に見える正慶元年(1332)・嘉吉4年(1444)銘の古碑(板碑)は所在不明となっています。
また、水戸徳川家の参府の折には、当寺で最後の身支度をととのえる屯所に充てられたとも聞きます。
円徳寺山門。
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本堂。
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D多聞寺(墨田区墨田5-31-13)
真言宗智山派寺院の多聞寺は、隅田山吉祥院と号します。
創建年代は不詳ですが、天徳年間(957-960)には現隅田川神社付近にあり、大鏡山明王院隅田寺と称していたといいます。
天正年間(1573-1591)に鑁海上人が本尊を毘沙門天として隅田山吉祥院多聞寺と改称したと伝えられます。
本尊は、隅田川七福神の一つにもなっている毘沙門天です。
茅葺の山門は区内最古の現存建造物で墨田区の指定文化財です。
東京大空襲で被災した浅草国際劇場の鉄骨など多くの文化財を有しています。
多聞寺山門の前の石仏。
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茅葺の多聞寺山門。
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東京大空襲の爆撃で折れ曲がった浅草国際劇場の鉄骨。
説明板には
東京大空襲で被災した浅草国際劇場の鉄骨
1945(昭和20)年3月10日未明、アメリカ軍B29爆撃機330機による無差別絨毯爆撃を受け、下町一帯は”炎の夜”と化した。
この東京大空襲により下町は壊滅状態に陥り、死者10万人、重傷者11万人、100万人が家を失った。(犠牲者の氏名、正確な人数は現在も不明)
この元浅草国際劇場の鉄骨(1998年現在、大部分は江戸・東京博物館に展示中)は、東京大空襲を語り継ぐ、数少ない歴史的”証人”である。
風船爆弾の工場となっていた浅草国際劇場も直撃弾を受け、屋根を支えていた鉄骨は曲がり、ちぎれ、天井の大部分が抜け落ち、たくさんの人々が焼死した。
目の前の痛ましくひきちぎられた鉄骨に向かって目を閉じてみると、炎の夜の恐怖がよみがえる。
戦争の実相を伝える”証人たち”に静かに心を傾け、不殺生の誓いを新たにしましょう。
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空襲で焼かれた木とのこと。
説明文には
戦災の証言者
パールハーバーから半世紀、終戦から46年目の1991年8月12日、この木は荒川区西日暮里1丁目2番7号(旧、三河島4丁目3420番〜3421番)に新しくビルを建てるための掘削により発見されました。
東京地域では、1942年4月18日から、1945年8月15日に至るまでに71回の空襲がありました。
ここに展示されている木は、43回目の1945年4月13日の23時から14日の2時22分にかけての空襲で焼かれた木です。
当日の投下爆弾は高性能弾81.9t、焼夷弾2037.7tで罹災地域は、西日暮里を含め139ヶ所に及びました。
戦火で焼け爛れたこの木は、生命の尊さを訴えるとともに、今、平和憲法のもと、再び戦火にまみれる事のない国を作ることを、私たちに求めています。
1992年10月18日 戦災の木を保存する会
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六地蔵坐像
この六地蔵像は総高150センチで、いずれも安山岩の四石からなっており、地面から一、二段目の石は方形、三段目は蓮台、その上に、それぞれ60センチの丸彫り地蔵坐像がのっている。
像容は向かって右から持ち物不明の坐像が二体、両手で幡を持つ半跏像、両手で宝蓋を持つ坐像、持ち物不明の半跏像、合掌している坐像の順に並んでいます。
欠損や修復の跡が見られますが、僧覚誉理慶(利慶)が領主となり、七年間にわたって隅田村内の地蔵講結衆の二世安楽を願って造立されたことが刻銘から読み取ることができます。
隅田村地蔵講中の数年にわたる作業行為を知り得る貴重な資料といえます
六地蔵の製作年代は右から、正徳三年(1713)二月吉祥日、同四年八月吉祥日、同三年八月吉祥日、同二年八月吉祥日、享保元年(1716)九月吉祥日、同三年十月日と刻まれています(平成4年3月 墨田区)
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多聞寺本堂。
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映画人の墓碑が有りました。
墓碑の由来
故坂斎小一郎(共同映画株式会社創立者)氏の遺族ハツ夫人が墓地資金を提供し、日本映画の民主的発展のためにつくされた映画の仲間の生涯を顕彰し、追悼する共同の墓碑建立に役立ててほしいとの申し出がありました。
その意志を尊重し、映画を愛する人々と団体によって本会が組織され、この墓碑が建立されました。
合奏者には、薄田研二、今井正、山本薩夫らとともに榎本健一(エノケン)の名前もあります。
戦前、映画・演劇界にも否応もなく戦争の影響が色濃く反映し、戦意高揚に積極的に協力、あるいは協力させられ、戦争物一色になっていきました。
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☆隅田川神社。
帰り道墨堤通りを歩いてきたら、隅田川神社参道入り口があった。
早速寄ってみることにした。
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この神社の創建については不詳であるが、言い伝えによれば源頼朝が創建したものと伝えられる。
もとの名を浮島神社といい、古くは水神社、水神宮、浮島宮などとも呼ばれ、「水神さん」として親しまれてきた。
1872年、現社名に改名した。
地域の鎮守神であるとともに隅田川一帯の守り神でもあり、水運業者や船宿など、川で働く人たちの信仰を集めたほか、「水神」の名から水商売の人々にも信仰された。
隅田川神社鳥居。
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二の鳥居。
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境内に面白い形の灯籠があった。
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隅田川神社拝殿。
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隅田川神神楽殿。
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隅田川の渡しは、隅田川にかつて存在した渡し船・渡船場の総称です。
長らく奥州や総州への街道筋に合わせていくつかの渡しが存在した。
戦国時代以降に徳川家康が江戸へと移封されると江戸の町は大きく発展を見せたが、防備上の関係で橋の架橋が制限されたこともあり、市街地を南北に分断する隅田川を渡河するために多くの渡しが誕生した。
江戸時代を通じて渡しは増え続け、最盛期の明治時代初頭には20以上の渡しの存在が確認できる。
関東大震災以後、震災復興事業に伴う新規の架橋も自動車や市電の通行も可能な橋も増え、1966年(昭和41年)に廃止された「汐入の渡し」を最後に、公道の一部としての隅田川の渡しは姿を消した。
その中の一つが水神の渡しでこの場所であった。
現在の水神大橋の100mほど下流にあった真崎稲荷と隅田川神社を結んでいた渡しで、名は隅田川神社が水神を祀っていることによるが、付近の俗称が「水神」でもあったことにもよる。歌川広重が錦絵「隅田川水神の森眞崎」に渡しを描いている。
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江戸時代末の絵師【歌川広重】が描いた浮世絵で、江戸名所百景の中の一枚【隅田川水神の森真崎】です。

季節は春の桜が咲く頃で、水神社と隅田川の向こうに見える筑波山を描き、安政三年の作といわれています。
手前には大きな八重桜が咲きほころび、眼下には堤通りが描かれ、その向こうに【水神社】の鳥居がや森が描かれています。
隅田川には帆掛け舟や渡し舟が浮かび、対岸の真崎の向こうには筑波山が望まれますが、まさに名所たる景色だったことでしょう。

今回のすみだまち歩きコース16は面白かった。
現物を多く眺めることが出来た。
前回は立て看板を探すコースだったがこのコースは違った。
(前回の記録)
http://olaf-mama.at.webry.info/201511/article_3.html
最後の神社も色々な歴史を感じさせられる場所であった。
12,000歩の散策。
満足だった。

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