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zoom RSS OLAFの墨田区散歩(’15年10月28日 鬼平の舞台を歩く)

<<   作成日時 : 2015/10/29 07:58   >>

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今日も晴天。
25℃超えの暖かさ。
今日はこの暖かさに誘われ、墨田区「自由散策まち歩きモデルコース」に従って、「 時代小説の定番!鬼平の舞台を歩く」コースを散策してみることにした。


OLAFが大好きな『鬼平犯科帳』は、池波正太郎の時代小説。
中村吉衛門さんが演じる鬼平犯科帳は再放送にも拘らず良く見る。

題材になっている長谷川平蔵は実在の人物なのです。
実際に若いころは放蕩無頼の生活をしていたのも、あながちフィクションではないようです。
普通、旗本の子であれば20歳前に将軍に拝謁したようですが、平蔵は23か24歳ころに拝謁したようです。
ようやく落ち着いたんでしょうかね。
有能であったらしく、凄いスピードで出世しています。
また剣の腕も確かであったようです。
石川島の人足寄場の開設は彼の尽力であったこともたしかです。

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@コースに従って、都営地下鉄菊川駅を出発。

鬼平こと、長谷川平蔵は明和元年(1764)父の屋敷替えによって築地からこの地に移り住みました。
天明6年(1786)、父同様御先手弓頭に昇進して火付盗賊改役につき、8年間の在職中に多くの犯罪者を更生させたことは有名です。
屋敷の西端にあたる都営地下鉄新宿線菊川駅の入り口に史跡説明版が建っています。
当時の敷地面積は1,238坪(4,085)におよんだと言われています。

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火付盗賊改は、自分の屋敷を役宅とします。
そのため、菊川の屋敷には、白洲や仮牢が設けられていました。
白洲は2間に3間つまり6坪の広さで、仮牢は9尺に3間ほどの広さだったようです。
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A榎稲荷神社
傍に菊川という川があり、その堤のうちに天和三年(一六八二)二月に当社が建立されたと伝えられる。
よって土手稲荷と称した。
宝暦年中(一七五一−六四)中風流行し、当社に平癒を祈願し、榎の皮を採り帰るにその効著しかった。
祈願を遂げた人びとは講中をつくり社殿を造営した。その後、現在地に移り、大久保紀伊守の邸内社となり、一農家がこれを守護していた。
その後、町内で石鳥居、漱水盤を奉納した。
万延年間(一八六〇−六一)に隣接の氷川大乗院配下本山修験吉祥院が守護した。いつのころよりか境内に林立する榎により、榎稲荷大明神と称したといわれる。
大正大震災にて焼失後、区画整理により現在地に移転した。(東京都神社名鑑より)
戦前は都内でも有数の縁日で知られていたそうです。
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B鬼平の生育地
尾張屋清七版『江戸切絵図・本所絵図』(江戸後期発行)の本所・入江町に「長谷川」という小さな武家屋敷があり、池波正太郎さんはそこを鬼平が育った屋敷としています。
何処かは、良く分りませんでした。
(柳が有ったので雰囲気的にはこの辺?)
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C鳥料理「かど家」
文久2年の創業で、池波正太郎さんがとてもひいきにしていたお店。
「五鉄」のモデルになったともいわれています。
創業以来続けているしゃも鍋は別格としても、水炊きやスープ煮等鳥の一品料理は伝統の味とあいまって最高です。
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ネットによるとランチも営業していて、軍鶏の親子丼が旨いと言うので、食べようと思ったが12時過ぎても暖簾は出なかった。
残念!食べそこなった。
D軍鶏なべ屋「五鉄」跡
清澄通り沿いの二之橋のたもとに高札がありました。
池波正太郎の鬼平犯科帳に登場する軍鶏なべ屋「五鉄」がこの辺りに実在していたそう。
長谷川平蔵(鬼平)とその密偵たちが鍋をつつくおなじみのシーンに登場しています。
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E二之橋
竪川に架かる隅田川より二つ目の橋で、『鬼平犯科帳』では「二ツ目橋」という名で数多く登場します。
茶店「笹や」や軍鶏なべ屋「五鉄」に立寄るにも欠かせない場所となっています。
川は護岸工事中で風流さは残念ながら有りませんでした。
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F弥勒寺
『鬼平犯科帳』シリーズ「お熊と茂平」に出てくる。

本所弥勒寺前の茶屋「笹屋」の名物店主は在所の名物婆さん「お熊」。
そのお熊、弥勒寺の下男だった茂平の死に際に立ち会った。茂平はお熊に遺言を残した。
貯めていた大金をお熊に渡して、「千住小塚原に住む甥の庄は八に自分の死を知らせてくれ」といういうのだ。
あまりの大金に驚き訝しさを感じたお熊は、火付盗賊改方の長谷川平蔵に届け出た。
平蔵も怪しさを感じて、庄八なる男の周辺の捜索を命じた。すると、庄八は盗人で、弥勒寺に手先を入れて押し込み強盗の準備を始めた。
平蔵はお熊に活躍の場を与えながら、盗賊補縛の段取りを手配した

真言宗の関東触頭江戸四箇寺の一つで、小説では重要な舞台の一つとなっています。
山門向いにはお熊婆さんの茶店「笹や」があります。

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G五間堀跡
五間堀は小名木川と堅川を結ぶ六間堀から分かれる入堀で、川幅が五間だったことから五間堀と名付けられました。
江戸時代には重要な水路でしたが、昭和11年と昭和30年の2度の埋め立てで、すべて埋め立てられてしまったそうです。 
幅が五間だったことからその名がついた五間堀は、現在は公園になっています。
堀の南側には絵師・石田竹仙の家があったとされています。
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H六間堀跡
名前は五間堀同様、幅が六間だったことから。現在は六間堀児童遊園になっています。
しばしば登場し、「寒月六間堀」というタイトルにもなっています。

鬼平犯科帳の「寒月六間掘」に出てきます。

平蔵は市口瀬兵衛の敵討ちの助太刀をしてやる事にした。
山下籐四郎の屋敷は深川平野町。御蔵前の料亭・巴屋から戻るとすれば、まず両国橋を渡り、本所一つ目橋を南に、六間掘りにかかる猿小橋を渡るに違いないと見た。
平蔵と瀬兵衛は橋のたもとで待ちうけることにした。右は御籾蔵、左は深川本町の町屋。夜ともなると人通りもなくなる。
平蔵は瀬兵衛に言った「もし別の道を通って屋敷に入ってしまった時は、おのれに運がなかったと思っておあきらめなさい」
平蔵が読んだ通り山下籐四郎の一行は六間堀にやって来た。
その夜は寒月が冴え、提灯もいらぬほどの月明かりだった。
用心棒を平蔵がし止め、市口瀬兵衛は山下藤四郎だけを討ちに行った。
しかし七十一歳の老人には力の差があり、次第に追い詰められていった。
討たれそうになり思わず「伊織、すぐ行くぞ」とつぶやいた。
何の事かといぶかしんだ藤四郎が止まったところを、下から小刀で刺した。

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I三保ヶ関部屋
2013年9月14日のスポーツ新聞によると
”大相撲の横綱北の湖や大関北天佑らを生んだ三保ケ関部屋が秋場所(15日初日・両国国技館)限りで消滅することが13日、分かった。
三保ケ関親方(64=元大関2代目増位山、本名沢田昇、兵庫県出身)が11月の九州場所中に65歳の定年を迎え、継承者がいないことから幕を閉じる。
部屋にはロシア出身の幕内阿覧ら力士8人を含め、待乳山親方(元小結播竜山)や行司、呼び出しら計14人がいる。
移籍先は所属する出羽海一門内で調整する。
三保ケ関親方は「秋場所が終わったら、きちんと発表したい」と述べた。
角界では横綱初代若乃花や横綱輪島らを輩出した花籠部屋が昨年5月、横綱大鵬らが育った二所ノ関部屋がことし1月に閉鎖、伝統を誇る部屋が相次いで消滅した。
三保ケ関部屋は元大関初代増位山が1950年に再興、北の湖や息子の2代目増位山、北天佑らを育てた。84年11月の定年に伴って現師匠が父から継承。
11日に引退した元大関把瑠都は平幕時の2006年7月まで在籍した。

◆三保ケ関部屋 江戸時代から大正まで続いた「大坂相撲」時代が起源。
第8代三保ケ関(十両滝ノ海)の急死によって1度、部屋の力士らは出羽海部屋へ移った。
だが、現三保ケ関親方(元大関増位山)の父の大関増位山が第9代三保ケ関を襲名して50年に再興した。
親子2代大関のほか、横綱北の湖や大関北天佑らを輩出。
11日に引退した元大関把瑠都も平幕時代の06年7月まで在籍していた。

工事中だった。
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10月の夏日の中、散策をした。
良く歩いた。
ランチは軍鶏の親子丼を食せず残念!

鬼平の世界を垣間見た。
もっともっと歩いてみるかナ

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