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zoom RSS OLAFの靖国神社見学 (’15年3月5日 靖国神社 ) 

<<   作成日時 : 2015/03/09 11:36   >>

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OLAFは今まで靖国神社には一度しか行った事が無かった。
靖国神社「みたままつり」の時だ。
(記録)
http://olaf-mama.at.webry.info/201007/article_5.html
今回は3月2日の日吉台地下壕見学に引き続き、歴史に詳しい先生の解説付きで見学する会だ。
(記録)
http://olaf-mama.at.webry.info/201503/article_3.html
良く解るだろう。
楽しみだ。


集合は田安門前の「九段坂公園」。
開設は此処から始まった。
武道館入り口の田安門のところに立つのがこの灯台。
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正式名称は「常燈明台」といって、靖国神社にまつられた霊のために明治4年(江戸時代から明治時代に移り未だ新しい日本が作られている途中の時代)に作られた高灯籠だが、その明かりは品川沖や房総からはっきり見えたそうだ。
それまでは神田明神の大灯籠が東京湾の目印だったというから、東京は平坦な場所だとわかる。
土台の石は江戸時代の各藩から拠出された銘石が貼り付けられ上部は八角円筒の西洋式という典型的な和洋折衷スタイルで、てっぺんには金色に輝く風見がついている。

直ぐ隣なりには「子爵品川彌二郎卿像」が立っていた。
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萩藩足軽の子として誕生、松下村塾に入り吉田松陰に学び、その思想的影響を受けて、尊皇攘夷運動に参加、高杉晋作らとイギリス公使館焼き討ち事件にも参画した。
老中間部詮勝(まなべあきかつ)要撃策に加盟、イギリス公使館焼打ちに参加、蛤御門の戦、四境戦争に従う。薩長同盟の席に立ち会い、討幕を画策。
維新後ドイツ公使宮中顧問官、内務大臣、枢密院顧問官等を歴在。産業組合設立に尽す。明治33年(1900)没、58。日本最初の軍歌「トコトンヤレ節」(宮さん、宮さん、お馬の前のピラピラするのはなんじゃいなトコトンヤレ)の作詞者でもある。

その隣には「大山巌」の銅像が立っている。
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大山巌は天保13年(1842)の生まれで薩摩藩出身。
元帥陸軍大将日露戦争では陸軍司令官、初代の陸軍大臣となった。
その後参謀総長、内務大臣を勤め元老となった。

先生の話によると「長州と薩摩は両方が幕府が大政奉還の立役者で明治政府の中心になったので常に薩長連合の代表者の銅像は両方が立っている。」との事。
こんな事は解説してもらって初めて知ったことだ。
歴史は面白いな!

田安門陸橋を渡って靖国神社へ。
靖国神社は、明治2年(1869)6月29日、明治天皇の思し召しによって建てられた東京招魂社が始まりで、明治12年(1879)に「靖国神社」と改称されたそうです。
靖国神社は、明治7年(1874)1月27日、明治天皇が初めて招魂社に参拝された折にお詠みになられた「我國の為をつくせる人々の名もむさし野にとむる玉かき」の御製からも知ることができるように、国家のために尊い命を捧げられた人々の御霊を慰め、その事績を永く後世に伝えることを目的に創建された神社です。「靖国」という社号も明治天皇の命名によるもので、「祖国を平安にする」「平和な国家を建設する」という願いが込められています。
靖国神社には現在、幕末の嘉永6年(1853)以降、明治維新、戊辰の役(戦争)、西南の役(戦争)、日清戦争、日露戦争、満洲事変、支那事変、大東亜戦争などの国難に際して、ひたすら「国安かれ」の一念のもと、国を守るために尊い生命を捧げられた246万6千余柱の方々の神霊が、身分や勲功、男女の別なく、すべて祖国に殉じられた尊い神霊(靖国の大神)として斉しくお祀りされています。
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実はこの鳥居! 日本の木で作られたものではなく、台湾で育ったタイワンヒノキで建てられているのです。

第一鳥居(大鳥居)の前に靖国神社の中国獅子が有りました。
これは狛犬ではなく中国獅子なのです。
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明治28(1895)年に清国(中国)の寺院から日本軍が持ってきたものです。
昭和8(1933)年に国産狛犬が奉納されるまで38年間、靖国神社の「狛犬」はこれしかいませんでした。

日清戦争(1894-95年)の最中、海城の山学寺が日本軍の野戦病院にあてられていた。
そこの総責任者であった石黒忠直軍医総監が、戦の終結後、軍司令官の山県有朋を訪ねたおり、この獅子像にいたく感動したという話をしたところ、そんなにいいものならぜひ日本に持っていき、「陛下の叡覧に供して大御心の程を慰め奉りたい」ということになったそうです。
なぜ靖国神社に中国獅子があるのか、これで分かりました。
もとは清国海城三学寺にあったものなのです。
対価を払ったのだから「戦利品」ではないとのことですが、決して、パンダのように日中友好の証として寄贈されたわけではありません。
これは「狛犬」ではないのです。
阿吽では無く阿阿です。
背中に小さい獅子を背負っているのも珍しい姿です。

社号標です。
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田中支隊忠魂碑が立っていました。
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先生の説明によると
”第一次世界大戦は、4年余にわたって戦われたが、特にロシアに与えた影響は甚大で、大正6年(1917)3月、革命が起り、翌年3月にはドイツと単独講和を締結してロシア軍は殆ど解体状態となった。
連合国側に協力していた約五万のチェコ・スロバキア軍団は、ウライオストクから欧州の連合国側戦線に増援のため同地に移動していたが、各地でロシア過激派(革命派)等の抵抗を受けていたので、日本、アメリカ、イギリス、フランス等にの各国はチェコ・スロバキア軍救援の名目でシベリアに軍を派遣することを決した。
日本から第十二師団がはけんされることとなり、大正7年(1918)8月、ウラジオストクに上陸し、9月初めにはハバロフスクに進軍した。
田中支援が属する歩兵第七十二聯隊は、更に西進してアムール州(現在の中国黒龍江省北方)方面の過激派討伐に任じたが、広域のため小部隊を僻地に分散配置し苦戦を強いられていた。
第三大隊長田中勝輔少佐は砲兵等の配属を受けて田中支隊を編成し、大正8年(1919)2月25日、敵の退路を遮断する任務を受け、ユフタ(ブラゴベシチェンスク北方)付近に達するや、敵の大集団が北方に退却しつつあるのを知り、香田驍男歩兵少尉の指揮する小隊(44名)を偵察のため先遣したが、約20倍の敵の攻撃を受け負傷者3名のの外全員戦死した。支援主力(150名)は香田小隊を赴援中、26日朝香田小隊を覆滅した敵と遭遇したが衆寡懸絶して包囲され、敵に多大な損害を与えたが支隊長は敵弾を受けて自刃し、全員壮烈な戦死を遂げた。更に、配属の砲兵中隊及び歩兵一小隊は西川達次郎砲兵大尉が指揮し、ユフタにおいて待命中、主力方面に銃声を聞き救援に赴いたが優勢な敵と衝突し、負傷して戦場を退いた5名の外107名悉く火砲と運命を共にした。
この忠魂碑は、重傷を負い生還された山崎千代五郎氏等が戦友の悲壮な最期を想起し、その神霊を慰めるため昭和9年(1997)2月26日、九段坂下に建立されたものを平成8年(1996)9月3日現在地に移設したものである。

こんな事も説明を聞かなければ知らない事であった。

その隣には、「戦跡の石」があった。
コレヒドール島、 ブーゲンビル島、グアム島、沖縄などの第二次世界大戦での激戦地の石を収集、展示してあった。
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激戦地では遺骨の収集もままならなかったので、せめて戦場の石だけでもという遺族の希望から展示されることになったという。
計51個集められたうちの25個が展示されているそうだ。
激戦地ともなると戦死者は大変な数に上る。
石の数は少なくてもその中にはたくさんの魂が宿っているはずだ。
それを「死んだら靖国で会おう」の合い言葉通り、靖国神社に安置したのは合点がいく。
とはいえ私がもし遺族だとしたら、靖国に親族の亡くなった場所の石を展示してほしいと思うかというと、しなくてもいいかなとも感じた。年齢や世代の違いもあるとは思うが……。
ただ、遠い彼の地で戦ったものたちの魂が宿った石を靖国に置き、遺族たちがその石を見ていろいろな思いを巡らすことはできるとは感じた。約束の地に遺骨代わりの石があることで、遺族への慰めにもなろう。
若くして死んでいった兵士たちの思いを分かち合うこともできる。
ネットで見つけた呼掛け。
靖国神社の第一鳥居をくぐり御正殿に向かって歩く進行方向右手に慰霊の泉があります。
位置の記憶が曖昧ですが、その手前に激戦地だった島の石がいくつか置かれています。
その中に硫黄島の石があります。参拝される方はご供養の為にもペットボトルをご持参し、お水をおかけ下さい。
泣けてくる。

大村益次郎 銅像。
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大村益次郎は靖国神社の創建に尽力して、明治26年に日本初の西洋式銅像として靖国神社の参道中央に建立されました。
銅像の顔は上野公園の方を向いており、西郷隆盛像と視線を合わせているそうです。
参道の真ん中から参拝客を見守っているように感じます。
大村益次郎と西郷隆盛は、共に、明治維新の主役であるが、その人物像、生き様は全く対照的ともいえる人物で興味深い。

靖国神社の第二鳥居の手前に大燈籠が左右に2つあります。
これは昭和10年に富國徴兵保険(現在の富国生命)が寄贈したもので、富国という名前も徴兵保険という名前もいかにも戦時下の会社という感じですが、当時の徴兵制は陸軍などは予算が乏しく食費などは自腹でしたので、それを補助するための保険ということでした。
この灯篭の足元にはレリーフが埋め込まれており、向って 右側が陸軍 左側が海軍で、共に日清戦争〜満州事変の戦闘場面をテーマとしたものです。
右側の海軍の大燈籠です。
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日露戦争で東郷平八郎司令長官の三笠艦橋の図で、明治37-38年(1904-05年)の日露戦争でロシアに圧勝して、それまでロシアの圧政に苦しんでいたオスマン帝国では東郷平八郎は英雄視されるようになりました。
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左側の海軍。
共に日清戦争〜満州事変の戦闘場面をテーマとしたものです。
そして広瀬をテーマとしたレリーフもあります。それが以下。
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満州事變 熱河長城攻撃
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昭和八年三月、我軍ハ長城ノ線ヲ攻撃シ、歩兵第十六旅團ハ、三月十日午後五時三十分、古北口付近ノ一角ヲ占領セリ
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昭和六年乃至九年事變 爆彈三勇士
昭和七年二月二十二日拂曉歩兵第二十四聯隊第一大隊ノ廟巷鎭攻撃ノ際工兵第十八大隊第二中隊江下武二北川丞作江伊之助突撃路爆破ノ状況 (落款)素巖
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この燈籠は、面ごとにレリーフが違っており、ぐるりと回りながら見ると、日露戦勝の歴史になっている。敗戦直後GHQが日本を民主化させようとしていたとき、この物語絵は軍国主義礼賛だから燈籠を撤去せよと言ったが、大きすぎるからとかいった理由だったか、それはできない、そのかわりに絵を隠してしまうと(だれかそのときの責任者が)答えた。
そしてコンクリートで絵を固めてしまい、絵が見えないようにした。しかしこのとき、後でコンクリートを簡単にはがせるように細工をした。
薄い板を絵を覆い、その上からコンクリートを流した。
そしてほとぼりが冷めた頃、板ごとコンクリートを除いた。
そして、現在でも見られるようになっているとか・・・

神門は昭和9年(1934)に建てられたもので、中央の二つの扉には、直径1.5メートルの菊花の紋章が取り付けられています。
平成6年(1994)の修復工事で、屋根の葺き替えが行われました。
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入り口が物すごく高い。
何故なら、通常は第一の鳥居の前で車から降りたり、馬から降りたりして参拝をするのが通常であったが、年に一回だけ将校が馬に乗って、かつ幟(のぼり)をもってこの門を通ったと言う。
その時にこの門をくぐれるようにしたからだと言う。

拝殿は明治34年(1901)に建てられたもので、この前には賽銭箱が置かれており、通常はこの場所で参拝します。
拝殿の屋根は、平成元年(1989)に葺き替えられました。
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鎮霊社。
戦争や事変で亡くなられ、靖国神社に合祀されない国内、及び諸外国の人々を慰霊するために、昭和40年(1965)に建てられました。
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招魂斎庭。
招魂斎庭は例大祭に合祀を行う時に最初に神霊を招ぎ下ろす祭壇である。
役目を終えたものとして、そのほとんどを駐車場にしている。
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靖国会館。
一階は参拝者休憩所です。
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遊就館。
明治15年(1882)に開館した遊就館は、遺品などを収蔵、展示する施設で、平成14年(2002)に改修、増築工事が施されました。
由来
中国の古典、『荀子』勧学篇「君子は居るに必ず郷を擇び、遊ぶに必ず士に就く」から「遊」「就」を撰んだものです。
国のために尊い命を捧げられた英霊のご遺徳に触れ、学んでいただきたいという願いが館名には籠められています。
歴史
遊就館は明治10年の西南戦争が終わるころ設立の構想が出され、同12年に陸軍卿・山県有朋を中心に、「御祭神の遺徳を尊び、また古来の武具などを展示する施設」として構想され、イタリアの雇教師カペレッティーの設計により、明治14年にイタリア古城式の建物が竣工し、翌15年2月25日に開館式が行われました。
昭和60年12月、遊就館改修工事竣工、昭和61年7月、展示内容等を充実し、およそ40年ぶりに遊就館は再開されました。
その後、靖国神社御創立130年を記念して、平成14年7月13日、本館を全面改装、展示手法・展示内容も一新し、更に映像ホールを備えた新館を増設。
ガラス張りのホールの中に零戦を初め、野外展示物を収納し現在に至っており、世代を越え、多くの方々にご拝観いただいております。

玄関ホールには零式艦上戦闘機(ゼロ戦)やC56型31号機関車、89式15糎加農砲、96式15糎榴弾砲などを自由に見る事が出来ます。
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それ以外は写真撮影禁止になっていました。

一番驚いた特攻兵器が展示されていた。
(ネットより転載)
「桜花」、
桜花(おうか)は日本海軍が太平洋戦争(大東亜戦争)中の1944年(昭和19年)に開発した航空機(特攻兵器)である。
1945年(昭和20年)から実戦に投入された
いわゆる人間爆弾である。
連合国側からは日本語の「馬鹿」にちなんだBAKA BOMB(単にBAKAとも)、すなわち「馬鹿爆弾」なるコードネームで呼ばれていた。
「桜花」は機首部に大型の徹甲爆弾を搭載した小型の航空特攻兵器で、母機に吊るされて目標付近で分離し発射される。その後は搭乗員が誘導して目標に体当たりさせる。
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伏竜。
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伏龍(ふくりゅう)は、第二次世界大戦(太平洋戦争(大東亜戦争))末期の大日本帝国海軍による特攻兵器のひとつ。
潜水具を着用し棒付き機雷を手にした兵士により、本土決戦における水際撃滅を狙った特攻兵器として、1944年に開発された。途中で終戦をむかえたため、伏龍が実戦に投入されることはなかった。
しかし、訓練中に百人以上が無くなっていると言う。

良く解っている先生の説明を聞きながらの見学だったので、良く解った。
本土決戦近くになって色々な特攻兵器が開発されている実態を知った。
神風特攻隊までは知っていたがそれ以外は知らなかった。

此処まで、やるか?
と言う感じが強くなった。
やはり、狂気の時代であったか・・・

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