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zoom RSS OLAFの浅草北部散歩 (’14年11月4日 平賀源内の墓、お化け地蔵、長昌寺銅鐘、他)

<<   作成日時 : 2014/11/05 12:28   >>

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今日も良い天気。
普段歩かない浅草北部を散策してみよう。
そんな思いで寺社を巡ってみた。
未だ行った事が無い寺社ばかりだった。


明治通りを白髭橋に向かって歩いて行く。
途中橋場の信号を右に入って浅草へ向かう。

最初に”平賀源内墓”に到着。
こんな所に有るのか!
驚き!
平賀源内は享保十三年(1728)、讃岐国志度浦(現香川県志度町)に生まれる。
高松藩士白石良房の三男で名は国倫。
源内は通称である。寛延二年(1749)に家督を継ぎ、祖先の姓である平賀姓を用いた。
本草学・医学・儒学・絵画を学び、事業面では成功しなかったが、物産開発に尽力した。物産会の主催、鉱山開発、陶器製造、毛織物製造などをおこない、エレキテル(摩擦起電機)を復元製作、火浣布(石綿の耐火布)を発明した。一方で風来山人・福内鬼外などの号名をもち、「風流志道軒伝」などの滑稽本や、浄瑠璃「神霊矢口渡」などの作品を残している。
安永八年(1779)十一月に誤って殺傷事件を起こし、小伝馬町の牢内で十二月十八日に病死、遺体は橋場の総泉寺(曹洞宗)に葬られた。墓は角塔状で笠付、上段角石に「安永八己亥十二月十八日 智見霊雄居士 平賀源内墓」と刻む。後方に従僕福助の墓がある。
総泉寺は昭和三年(1928)板橋区小豆沢へ移転したが、源内墓は当地に保存された。
昭和四年に東京府史蹟に仮指定され、昭和六年には松平頼壽(旧高松藩当主)により築地塀が整備される。
昭和十八年に国指定史跡となった。(台東区教育委員会掲示より)

瓦を挟み込んだ”築地塀”が綺麗だ。
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築地塀の内部にお墓が有った。
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墓石。
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次は”お化け地蔵”だ。
「お化け地蔵」の名には、かって大きな笠をかぶり、その笠が向きをかえたから、あるいは高さ3メートル余の並はずれて大きいからなど、いくつかの伝授がある。
この辺りは、室町時代以来、禅宗の名刹総泉寺の境内地であった。門前一帯を浅芽ヶ原といい、明治四十年刊「東京名所図会」には「浅芽ヶ原の松並木の道の傍らに大いなる石地蔵ありしを維新ない際並木の松を伐りとり、石地蔵は総泉寺入口に移したり」とあり「当寺入口に常夜灯あり、東畔に大地蔵安置す」とも記している。
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次は”妙亀塚(みょうきづか)”。
この妙亀塚のある地は、かって浅芽ヶ原と呼ばれた原野で、近くを奥州街道が通じていた。
妙亀塚は、「梅若伝説」にちなんだ名称である。
「梅若伝説」とは平安時代、吉田小将惟房の子梅若が、信夫藤太という人買にさらわれ、奥州につれて行かれる途中で、重い病にかかりこの地に捨てられ世を去った。
我が子を探し求めて、この地まできた母親は、隅田川岸で里人から梅若の死を知らされ、髪をおろして妙亀尼と称し庵をむすんだ、という説話である。
謡曲「隅田川」はこの伝説をもとにしている。
塚の上には板碑が祀られている。
この板碑には「弘安十一年戊子五月二十二日孝子敬白」と刻まれており、区内でも古いものである。しかし、妙亀塚と板碑との関係は、明らかではない。

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次は”福寿院”。
安藤東野墓(あんどうとうやはか)が有る。
江戸時代中期の儒学者。名は煥図、字は東壁、仁左衛門と称し、東野と号していた。
基滝田氏といい、天和三年(一六八一)一月二十八日下野那須郡黒羽に生まれた。
父大沼玄佐は良しとして下野黒羽藩に仕え、彼は次子であったが幼くして父を失い江戸に移った。
ここで太宰春台とともに中野謙の門に学び、後に安藤氏に養われ、これにより安藤氏を称した。
柳沢吉安に仕え荻生徂徠に就いて詩文を学ぶ。
たまたま将軍綱吉が柳沢邸に来た時に講義したという。
正徳元年(一七一一)二十九歳の時に致仕し駒込白山に隠居した。
のち河内西代藩主本田忠統の賓師となったが、肺を病み享保四年(一七一九)四月十三日三十七歳で死去した。
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中々立派な屋根の飾り瓦。
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キリンの彫り物。
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狛犬。
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次は”長昌寺”。
だいぶ良く行く浅草に近づいてきた、
長昌寺は、浅草寺座主を務めた寂海法印が、は弘安2年(1279)に当地で日蓮上人の弟子日常との宗論に敗れ、名を日寂と改め、妙昌寺として開山したといいます。
その後水害に遭い、元享元年(1321)現在地に再興、長昌寺と改号、元和年間(1615-1624)江戸幕府の有力な譜代大名酒井忠勝によって中興され、江戸時代には正観世音像が庶民の信仰を集めていたといいます。
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銅鐘。
長昌寺は日蓮宗の古刹で、開創は弘安2年(1279)といわれる(一説に同5年)、開山の日寂は浅草寺座主を務めた天台宗の僧であったが、日蓮の直弟子日常と宗論におよび改宗、橋場に妙昌寺を開いた。
その後、水害で堂宇を流失し、元享元年(1321)現在地に再興、長昌寺と改めた。
元和年間(1615-1624)江戸幕府の有力な譜代大名酒井忠勝によって中興され、日寂が浅草寺から移したといわれる観音像などが庶民の信仰を集めた。
橋場の数か寺にはいわゆる「鐘が淵」の沈鐘伝説があり、長昌寺の鐘もその一つである。
現在の銅鐘は、堂宇流失の際に沈んだといわれる鐘の再鋳として、享保5年(1720)22世住持日津および橋場の檀信徒によりつくられた。
鐘銘は、飯高檀林化主で身延山久遠寺住持にもなった日潮の作になる。
また銘文中には、鋳造者の神田鍋物師小幡内匠の名が記されている。
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名前は知らないけれど、綺麗な花が咲いていた。
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散策終了。
初めての街と寺社を巡ってみた。
未だ知らない所があちこち存在する様だ。

さて、浅草でランチでもして帰ろうか。

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