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zoom RSS OLAFの東京時代まつり見物 (’10/11/3 浅草浅草寺境内)

<<   作成日時 : 2010/11/04 10:10   >>

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11月3日浅草の3大イベントとも言える、東京時代まつり歴史絵巻が開催された。
「時代まつり」は平成元年に始まった。
今年で、22回を数え浅草の恒例行事となっている。
京都の時代まつりにちなんで、江戸東京の歴史絵巻を再現した時代行列だ。
浅草を舞台に祭りは始まる。


11時半頃に浅草へ到着。
東京スカイツリーが晴天の青空に映える。
現在497mになって、あちらこちらから見えるようになってきた。
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12時半行列出発となっているので、12時に浅草浅草寺に。
行列は浅草の街を練り歩くが、浅草寺境内の出発地点で見ることにした。
お参りを済ませ、写真を撮るポイントを捜す。
かなり素人カメラマンが出ていて良い所がとれそうも無い。
頑張って、何とか写せそうな所に潜り込む。

浅草寺は、西暦628年の観音様のご示現により創建された。
浅草寺の創建から平安、鎌倉、江戸、幕末、文明開化を経て「東京」となった現代までを再現する。
見所は約1600名の大行列による歴史絵巻の展開のようだ。


12時半。
行列の初め”浅草のよろこび 金龍の舞”が出発する。
出てきて直ぐに金龍が元気良く踊る。
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その後の行列がスタートしない。
警備をしている観光協会の人に聞くと、出発会場内で来賓に向けイベントを披露しているとの事。
待つこと1時間。
1時半になって、いよいよ出発し始めた。
東京のあけぼの”浅草観音示現”。
推古36年(西暦628年)3月18日。
隅田川の清流を漁労中の檜前浜成・竹成 の兄弟が、漁網の中から黄金の観音像を 発見しまた。
土地の豪族土師真仲知は、これに深く感銘。
自宅を改め寺とし三人は礼拝に生涯を捧げた。
これが浅草寺の起源であり、後生この三人は、浅草の開拓者として、三社大権現の尊称を奉られ、三社祭へと発展していった。
秘仏の観音像は浅草寺本堂に奉安され、今なおこの都を守り続けている。
これを表現した行列だ。
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在原業平 東下り。
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北条政子 浅草寺参詣。
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浅草寺に伝わる白鷺の舞。
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田楽踊りの名残を留めるびんざさら舞。
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三社大権現祭礼 船渡御。
江戸末期までは神輿を奉ずる船が隅田川を駒形まで漕ぎ上がる船祭も伝わっていた。
この船渡御を舟形の山車で再現している。
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江戸開祖 太田道灌。
康正2年、西暦1456年、太田道灌は、12世紀の豪族江戸重嗣の屋敷跡に、江戸城を築城した。
江戸城は攻め難く、守り易い名城として当時から評判だった。
また道灌は和歌の素養も高く、鷹狩りに出て雨に遭った際、実のならない山吹で蓑のない事を告げた娘の逸話は有名である。
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江戸城築城 御石曳き。
慶長8年、西暦1608年、征夷大将軍となった徳川家康は江戸城の大拡張工事を発表し、諸大名に命を下した。
城に適した岩を産出し、しかも江戸に近いという条件から、相模や伊豆海岸が選ばれた。
その姿を再現している。
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元禄花見踊り。
時は元禄。
上野の山に鮮やかな、小袖模様の妖艶。
真っ赤に紅葉したモミジのその下に、絢爛豪華な花が咲く-江戸中期。
天下太平のよき時代都市を舞台に独自の町人文化が花開いた。
浮世絵、歌舞伎に贅を凝らした元禄模様・・・・「粋」という言葉に示される洗練された趣向は、現代になってもその光を失っていない。
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義士の討ち入り。
元禄15年(1702年)12月14日。
太平の世を打ち破るが如く、陣太鼓が鳴り響く。
忠ならずば臣にあらず-大石内蔵助を筆頭とする赤穂浪士四十七士の吉良邸討ち入りだ。
四十七士は切腹を免れることはできなかったが、江戸市民の赤穂浪士に対する評価は高く、現代に至るまで彼らは「義士」と称され語り継がれている。
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大岡越前守と江戸町火消。
享保2年(1717年)。
八代将軍吉宗は、大岡越前守忠相を江戸南町奉行に任命した。
有名な大岡裁きの他にも、目安箱の設置。
新田の開発などに尽力し、特に家屋の構造を心得た鳶職・大工を中心に江戸町火消いろは48組を組織した功績は大きく、後世の評判に違わぬ名奉行だった。
友人の鳶の頭が行列に参加していた。
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浅草市村座七福神舞。
恵比寿に大黒、弁財天・・・・七福神は福徳の神として知られている。
江戸末期、歌舞伎・市村座の座主は浅草観音への信仰厚く、一座の興業の前狂言として「七福神踊り」を上演して観音様の功徳をたたえた。
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猿若三座 江戸歌舞伎。
出雲大社の巫女・阿国(おくに)を祖とする歌舞伎は、寛永元年(1624年)、猿若勘三郎が江戸に一座を開いたのを皮切りに、隆盛期を迎えた。
その後、一時は人気役者と奥女中との不義密通事件から全座休座を命じられたが、やがて中村座、市村座、守田座のみが興業を許され「江戸三座」として日本の伝統芸能を育てた。
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江戸芸者。
芸者の起源は元禄時代、遊廓で遊女の伎芸不足を補うために生まれた、太鼓専門の女性がその始まりだったと伝えられている。
吉原の場合は特にその傾向が強く、明らかに遊女とは一線を引いた、三味線音楽と踊りの専門家だった。
町芸者では浅草芸者が有名で、”聖子”ちゃんの姿も見えた。
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黒船来航・浦賀奉行。
嘉永6年6月、米大使ペリー率いる黒船の浦賀来航によって、泰平の夢は破られた。
2年後の日米通商条約を結ぶべく下田に着任した初代駐日領事ハリスとの間に、「唐人お吉」が謎を秘めた悲劇の主人公として登場する。
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江戸から東京へ。
慶応4年(1868年)。
慶喜の大政奉還によって、元号は明示へと改まった。
安定した時代を築くためにはさらに多くの血を必要とした。
同年5月には、旧幕臣2000名余りが上野の山に集結。
彰義隊として官軍に徹底抗戦を試み、無惨にも壊滅させられていった。
西郷隆盛・坂本龍馬・大久保利通・・・・命をかけて日本の夜明けを築いた多くの偉人たちのように、彰義隊もまた時代の礎であり、やがて江戸は東京へと移り変わっていくった。
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文明開化 鹿鳴館。
人力車で鹿鳴館に出かける当時の女性。
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浅草奥山風景。
浅草寺裏手、奥山の栄えは江戸時代より。
諸国から集まる見世物小屋・大道芸人。
境内には水茶屋・瓦版。江戸の賑わいを一手におさめるほどの繁栄は、文明開化の世にも変わらず。
明治17年(1884年)浅草六区指定後も、十二階凌雲閣・軽業・芝居に活動写真、活気と熱気の交差の中で、東京の娯楽は常に浅草から出発していった。
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3時間もの間、立って見ていた。
疲れた。
次回は、座って見られる場所を探そう。

京都のお祭りと比べるとなんだか底が浅い。
歴史の違いなのか?
演出の相違か?
もっと、歴史が必要なのか。

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