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zoom RSS OLAFの東京散歩弟44回 (’10年6月5日 三河島の山車人形見物)

<<   作成日時 : 2010/06/08 06:55   >>

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近所の素盞雄神社で、天王祭が行われました。
六月は旧暦では夏。
春と秋に稲の収穫を祈念感謝する農村型の祭禮に対して、天王祭は京都の祇園祭と同様、夏に流行する疫病を振り祓う都市型の祭禮と言えます。
やはり京都の祇園祭文化が江戸にも流れてきていたのです。

六月二日の宵宮祭、三日の例大祭は、町屋、三河島、南千住・三ノ輪の三地区六十一ヶ町総代を初め氏子崇敬者の参列のもと、厳粛な祭儀が斎行されます。

本社神輿が渡御する三年に一度の御神幸祭を俗称で「本祭」といい、それ以外の年を「陰祭」といいます。
「陰祭」では本社神輿はでませんが、町内神輿やこども神輿等、その盛況さには変わりありません。
今年は「陰祭」です。
「本祭」では、御祭神スサノオノミコトが大蛇(おろち)から救い出し御結婚された稲田姫の山車人形が飾られます。
今年は素盞雄神社の境内には、飾られないので、保存されている町会に山車人形を見に行きました。

素盞雄神社の境内には、屋台が出て沢山の人で賑わっています。
いつものお祭の風景です。
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本社大神輿が神輿倉に飾られていました。

天文10年(1541)荒川が洪水のとき、町屋村杢右衛門が御殿野(現町屋地区)で古い神輿を見つけて本社に納めてより神輿渡御が行われました。
現在の神輿は明治10年(1879)千葉県市川市行徳村の浅古周慶の作。
重量千貫の神輿を、四間半(8.1m)の長柄二本(二天棒)で左右に振る「神輿振り」が有名で、神輿を納めた故事により現在に至るまで町屋の氏子が宮出しを行います。
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素晴らしい鳳輦です。
神輿は関東、鳳輦は関西との話もありますが、確かに関東には鳳輦を持つ神社はすくないようです。
しかも鳳輦が使われているのは、今のところ3社の天神社(祭神:菅原道眞)と2社の日枝神社(祭神:大山咋神)だけです。
この素盞雄神社はこの3社の中の1社です。
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江戸後期〜明治初年にかけて素盞雄神社には3台の山車があったと三河島郷土史に記載されています。
山車は「壱番 熊坂長範」「弐番 素盞雄命」「参番 稲田姫」の3台です。

山車(だし)は神様の降臨する目印・依代(よりしろ)で、江戸の頃は神輿をしのぐ隆盛ぶりでした。
明治後期より市電の普及を始めとする急速な市街化が進んで、山車を曵き回すことが困難になり、町神輿が祭礼の主役になると次第にその姿を消して行きました。
三河島郷土史にある「弐番 素盞雄命」は戦災で消失しましたが、「壱番 熊坂長範」は荒川中央町会、「参番 稲田姫」は荒川文化会・荒川宮地町会・荒川四丁目西仲睦会・大西町会の氏子中により、天王祭において毎年町内お神酒所に飾られています。

始めに、「参番 稲田姫」を見に行きました。
「参番 稲田姫」は三河島稲荷(宮地稲荷とも呼ばれています)の境内の神楽殿に展示されていました。

なかなかこった社務所が隣に出来ていました。
町会役員さんのご努力なんでしょう。
箱庭風の社務所玄関です。
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玄関脇の竹からお神酒が出るように洒落てました。
この枡酒がお客さんへの”お振る舞い”だそうです。
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山車人形の曳き回しは、江戸盛期の寛政より文化、文政の頃に最も盛んに執り行われました。
この当時から明治初年にかけては毎年三河島氏子中では昔からの山車人形を引き出し、有名な小室節(日本を代表する民謡ですが今は節回しが分からなくなっているとか)と共に村内を初め三ノ輪より坂本付近まで巡行し、果ては上野広小路まで曳き回したという記録が残っています。
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神話「八岐大蛇(やまたのおろち)退治」には、「御祭神スサノオノミコトは荒れ狂う大蛇から稲田姫を救い出し、御結婚され多くの御子神を授かり幸せな御家庭を築かれた」とあります。
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頭が入っている箱に”文久元年”の制作年月日が書かれています。
文久元年は1861年です。
江戸時代の最後の将軍、徳川慶喜の大政奉還は1867年( 慶応3)ですから、その6年前です。
尊王だ!攘夷だ!で「坂本龍馬」や「高杉晋作」、「新撰組」が跋扈し、世の中は騒然としていたでしょう。
前年の1860万延元年には桜田門外の変が起こり大老井伊直弼(46歳)が暗殺されています。
そんな時に、この稲田姫が作られ、祭の度に引き回されていたとは驚きです。
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次は、「壱番 熊坂長範(くまさかちょうはん)」の山車人形を見に行きます。
荒川中央町会が保存管理し同じ様に社務所に飾られていました。

傍に神輿倉が有り、開け放されていました。
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社務所横のビルの一部屋を借りて飾られていました。
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凄い形相です。
熊坂長範の伝説は、本州各地の14都県(福井、石川、滋賀、岐阜、新潟、長野、秋田、山形、神奈川、東京、愛知、三重、兵庫)に及び、それぞれの土地に幾百年となく語り伝えられている中に、夫々の土地のふる里意識と人々の情念とが相まって、各地方によりその内容が多少違っているのも興味深いものです。
この地の長範伝説は、少なくとも世に云う強盗や弱者いじめの追いはぎの類ではなくて、時には無力で貧しい村人達を助けた頼母しい義賊として、庶民の心の中に時代を越えてずっと生き続けて来たものです。
長範像は、草深い山里の人々の心の中に夢とロマンを托すことの出来た大切な人物であり、まさしく長範こそ草の中の英雄でもあったようにも思われています。
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「壱番 熊坂長範」や「参番 稲田姫」の「壱番 」、「参番」は引き回される時に順番をくじ引きで決めたそうです。
その時の順番が今でも伝わっているそうです。
この町会では今でも「壱番 」が誇りです。
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引き回しが行われていた時の写真です。
昭和29年の日付が入っています。
お囃子も聞こえそうです。
町会の役員さんも写っています。
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『構造はこうなっています。』
詳しく説明してくれました。
軽くするために骨組みの上に組み立ててあるそうです。
また、当時は目玉も動く仕組みになっていたそうで、歌舞伎の見栄を切る様な姿が見られたそうです。
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この町会のお神輿も立派なものでした。
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飾り網 (お手綱、化粧綱とも呼ばれ、紫や金の豪華な綱でできている)を外して(神さまをお祀りする神輿の中心部で、十二支の動物や縁起物、その他工夫を凝らした彫刻などで飾り付けられている)の彫り物を見せてくれました。
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十二支がきっちり彫られていました。
お金に糸目をつけない彫り物と言う事でした。
ウマ ・ヒツジです。
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ヒツジ・サル・ニワトリです。
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トラ・ウサギ・リュウです。
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この地も祇園祭と同様の歴史が有るんだ。
文化的には江戸はやはり京都を見ていたのだ。
京都の祇園祭の流れを汲む天皇祭。
そして山車人形。
祇園祭並みに今でもその伝統がつながっていたら、さぞかし面白かったろう。
今は単に人形を見てもらうだけとなっているのは誠に残念!

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