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zoom RSS OLAFの東京散歩弟39回 (’10年5月8日 皇居東御苑散策)

<<   作成日時 : 2010/05/09 10:13   >>

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週間天気予報では雨だったが、GW明けも好天が続いた。
OLAFは京都御所、京都御苑はこの春見てきたが、東京の東御苑は未だ見たことが無い。
そこで、散策に出かける。
ここは、予約も何も要らない。

東御苑は徳川幕府の居城(江戸城)であったものが、 明治元年(1868年)10月に皇居とされ,翌2年(1869年)3月明治天皇は千年余りの間お住まいであった京都からこの地にお移りになり現在に至っている。
皇居内には、天皇皇后両陛下のお住居である御所を始め、諸行事を行う宮殿、宮内庁関係の庁舎、紅葉山御養蚕所などの建物があり、その一角に皇居東御苑がある。


地下鉄で日比谷駅まで行き、そこから入場が出来る大手門まで歩く事にする。
土曜日と言う事でお堀に沿った日比谷道りは空いている。

つつじの花が美しい。
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ここは、ホノルル?
トロリーバスが停まっている。
今まで見たことが無かったが、”スカイバス東京”が運行している皇居・銀座・丸の内コースに投入しているクラシック・トロリー社製のトロリーバスだった。
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入場が出来る大手門へ到着。

<大手門(おおてもん)>
旧江戸城の正門で、慶長12年(1607年)藤堂高虎によって1年3ヶ月ほどで完成 したそうです。
元和6年(1620年)の江戸城修復に際し、伊達政宗、相馬利胤の協力によって現在のような桝形形式(ますがた)の城門になったといわれています。
屋根の頭部には、鯱がついていた。
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<大手門渡櫓の屋根に飾られていたシャチ>
1945年(昭和20年)4月、戦災で消失した旧大手門渡櫓の屋根に飾られていたシャチです。
頭部に「明暦三丁酉」と刻んであることから、明暦の大火(1657年)で消失した後、再建された際に製作されたものと推定されます。
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<入園票>
[出入門]は、大手門・平川門・北桔橋門(きたはねばしもん)の3箇所からです。
予約などは必要ありませんが、門で「入園票」をもらって入ります。
帰り門を出るときにその「入園票」を返します。
パンフレットは売店に準備されています。
そのパンフを見ながら散策が出来ました。
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<同心番所(どうしんばんしょ)>
「番所」とは、警備の詰所のことで、この同心番所と百人番所、大番所の3つが残っています。城の奥の番所ほど、位の上の役人が詰めていました。
江戸城の正門であった大手門から入城した大名が最初に通る番所で,与力,同心が詰めて警護にあたっていたところです。
主として登城する大名の供の監視に当たっていました。
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<本丸中之門石垣(ほまるなかのもんいしがき)>
明暦3年(1657年)の大火以前の中之門の遺構が出土しました。
現在の中之門は万治元年(1658年)に熊本藩主 細川綱利により再構築されました。
本丸中之門石垣の築石は、35トン前後の重量を持つ、江戸城内でも最大級の巨石が使用され、布積みという技法で積まれています。
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<百人番所(ひゃくにんばんしょ)>
江戸城の正門だった大手門から,本丸に入るときの最大の検問所で、大手三之門の前に設けられたのがこの百人番所です。
甲賀組,根来(ねごろ)組,伊賀組,二十五騎組の4組が昼夜交代で護りを固めていました。
各組には,同心百人ずつが配属されていたところから百人番所の名が生まれました。
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<富士見櫓>
本丸地区に現存する唯一の櫓です。
遺構の中では最も古いものと言われている。
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<松の大廊下跡(まつのおおろうかあと)>
忠臣蔵でおなじみの元禄14年(1701年)3月14日赤穂藩主・浅野内匠頭長矩(あさのたくみのかみながのり)が殿中で吉良上野介義央(きらこうずのすけよしなか)への刃傷事件(にんじょうじけん)を起こした場所です。
今は当時を偲ぶものは何も有りません。
廊下に沿った襖戸(ふすまど)に「松」と「千鳥」を主題にした絵が描かれていたことから「松の大廊下」と呼ばれていました。
江戸城で2番目に長い廊下で、畳敷きの立派なものでした。

ここの刃傷沙汰が先週行った泉岳寺の四十七士のお墓につながっているのだ。

(泉岳寺散策のブログ)

http://olaf-mama.at.webry.info/201005/article_2.html

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”キエビネ”
黄色い花が咲いていました。
花弁が開いてしまう前は、馬酔木の様な釣鐘の形をしているようです。
可愛らしい花です。
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<石室(いしむろ)>
抜け穴とか、金蔵とか諸説がありますが、大奥御納戸の脇という場所柄から、非常の際の、大奥用の調度などを納めたところと考えられます。
内部の広さは、20平方メートルあります。
表からは見えませんが、伊豆石(伊豆半島産の安山岩)で作られており、天井には長い石の坂が使われています。
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<天守閣跡(てんしゅかくあと)>
江戸城の天守閣は、二代将軍秀忠の代の慶長11年(1606年)と翌年の2年にわたって建設され完成しました。
その後、元和8年(1622年)、承応2年(1635年)とたびたび修築され、寛永14年(1637年)三代将軍家光の代に、江戸幕府の権威を象徴する国内でも最も大きな天守閣が完成しました。
天守閣は、地上からの高さは58mあり、天守閣の基礎石積みは、44メートル四方、高さ18メートルで、その上に金色のシヤチを頂く外観五層、内部6階の天守がそびえていました。
しかし、明暦3年(1675年)の大火(振り袖火事)で焼失した後は、再建されていません。基礎石である石垣だけが残っていて、現在の石垣の高さは約10mです。
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<桃華楽堂(とうかがくどう)>
桃華楽堂は、昭和41年2月に完成し収容人員は200名の音楽堂で、音楽好きの香淳皇后(こうじゅんこうごう)さまの還暦記念として建設されました。
鉄仙の花弁を形どつた屋根と八面体の珍らしい建物で、ホール外壁のモザイク・タイルの図柄は、各面とも大きく羽ばたく鳥を抽象的に描いたものに、日月星・衣食住・風水火・春夏秋冬・鶴亀・雪月花・楽の音・松竹梅と八面の正面から左へ順に陶片であしらっています。
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<展望台>
二の丸地区が良く見えます。
白鳥濠です。
皇居周囲の高層ビル群との対比が、「ここは東京のど真ん中。」を思い出させてくれます。
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<汐見坂(しおみざか)>
本丸と二の丸をつなぐ坂道です。
昔はこの坂から今の新橋から皇居前広場近くまで日比谷入江が入り込み、海が見えたのが名称の由来です。
坂を下りると,三代将軍徳川家光の命により小堀遠州が造ったとされる庭園を復元した二の丸庭園があります。
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<二の丸庭園雑木林>
雑木に混ざって花が咲いていました。
”つつじ””アヤメ”です。
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<都道府県の木(とどうふけんのき)>
全国の都道府県から、それぞれ代表する木を植樹しています。
京都は”きたやますぎ”でした。
手入れが少し悪いように思えます。
杉の葉はもう少し刈り込んだ方が良いんでは?
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<諏訪の茶屋(すわのちゃや)>
諏訪の茶屋は、江戸時代には吹上地区(現在の御所などのある一帯)にありました。
この建物は、明治45年に再建されたもので、明治期の茶室風の建物として優雅な外観を持っているため、皇居東御苑の整備に当りここに移されました。
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<二の丸庭園(にのまるていえん)>
江戸時代、二の丸には、小堀遠州が造り、三代将軍の徳川家光の命で改修されたと伝えられる庭園がありましたが、長い年月の間にたびたび火災で焼失し、明治以降は荒廃していました。
現在の回遊式の庭園は、昭和43年の皇居東御苑の公開の開始に当り、九代将軍徳川家重の時代に作成された庭園の絵図面を参考に造られたものです。
滝がありました。
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”シラン”
紫色のランが池の辺に咲いていました。
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”シャガ”
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”藤”が満開でした。
今年初めて満開の藤を見ました。
「ようやく」と言う気持ちです。
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”シロ藤”も咲いていました。
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<皇居正門石橋旧飾電灯>
脚の部分が野獣のような凄い造りです。
皇居の正門にある現在の物と同じのようです。
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始めて見たが外国人が沢山散策をしていた。
OLAFがホノルルでイオラニ宮殿を眺めて歩くようなものかナ〜〜〜。

江戸城を皇居として天皇陛下に使って頂いているわけだが、やはり京都の御苑の方が歴史を感じさせられる。
天皇陛下も京都御苑の方がお好きではないのだろうか?

東京のど真ん中に緑が沢山。
時々散策する価値は有りそう。


(文中の解説文は宮内庁の東御苑のHPより、使わせてもらっています。)

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