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zoom RSS OLAFの東京散歩弟36回 (’10年3月28日 日暮里寺社巡り<本行寺・経王寺・天王寺・全生庵>)

<<   作成日時 : 2010/03/29 23:23   >>

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咲き始めた桜が、蕾に戻ってしまいそうな寒い日だ。
手や顔が冷たい。
こんな中、日暮里の寺社巡りに参加した。
”下町散歩”で、今人気がある行事だ。


本行寺

日暮里駅から御殿坂を登り始める所に、本行寺がある。
このお寺が、最初の訪問場所だ。

日蓮宗の長久山本行寺は、大永6年(1526)、江戸城内平河口に建立され、江戸時代に神田・谷中を経て、宝永6年(1709)、現在地に移転した。
景勝の地であったことから通称「月見寺」ともよばれていた。
二十世の日桓上人(俳号一瓢)は多くの俳人たちと交遊があり、小林一茶はしばしば当寺を訪れ、「青い田の、露をさかなや、ひとり酒」などの句を詠んでいる。
儒学者市河寛斎・書家米庵父子や、幕末・維新期に活躍した永井尚志などの墓がある。
戦国時代に太田道灌が斥候台を築いたと伝える道灌物見塚があったが、現在は寛延3年(1750)建碑の道灌丘碑のみ残る。
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何と言う花だったけ?
”ぼけ”だったか??
可憐な花が咲いていた。
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経王寺

次は、日蓮宗の大黒山経王寺。
明暦元年、当地の豪農冠勝平が要詮院日慶のために寺地を寄進し、堂宇を建立したことに始まります。
本堂の隣の大黒堂には日蓮上人の作と伝えられる大黒天が鎮守として祀られています。
甲斐身延久遠寺末です。
旧谷中七福神のひとつです。

慶応4年(1868)の上野戦争に敗れた彰義隊士がここへ隠れたため、新政府の攻撃を受けました。
天保7年(1836)建立の山門には銃撃を受けた弾痕が今も残り、当時の激しさを今に伝えています。

彰義隊は西郷隆盛が組織した御用盗が、江戸各地で放火や強盗を起こし、それを彰義隊の仕業としていた。
江戸城も放火の被害に遭っていた。
そのような理由から彰義隊士と新政府軍兵は小競り合いを起こした。

新政府側は、1868年5月1日に彰義隊の江戸市中取締の任を解くことを通告、新政府自身が彰義隊の武装解除に当たる旨を布告した。
これにより彰義隊との衝突事件が上野近辺で頻発。
軍務局判事(兼江戸府判事)として江戸に着任していた大村益次郎の指揮で武力討伐が決定、同14日に彰義隊討伐の布告が出される。

1868年7月4日(慶応4年5月15日)未明、大村益次郎が指揮する政府軍は、寛永寺一帯に立てこもる彰義隊を包囲し、雨中総攻撃を行った。
新政府軍は火力で優り、また肥前藩が保持するアームストロング砲の威力もあって、午後からは優勢に戦闘をすすめ、1日で彰義隊を撃破、寛永寺も壊滅的打撃を受けた。
記録上の戦死者は彰義隊105名、新政府軍56名といわれている。


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経王寺山門に残っている弾痕です。
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天王寺
谷中霊園の方に歩き始めました。
そこに、天王寺があります。
日蓮が鎌倉と安房を往復する際に関小次郎長耀の屋敷に宿泊した事に由来する。
関小次郎長耀が日蓮に帰依して草庵を結んだ。
日蓮の弟子の日源が法華曼荼羅を勧請して開山した。

開創時から日蓮宗であり早くから不受不施派に属していた。
不受不施派は邪宗であるとして江戸幕府により弾圧を受けた。
日蓮宗第15世日遼の時、1698年(元禄11年)に強制的に改宗となり、14世日饒、15世日遼が共に八丈島に遠島となる。
廃寺になるのを惜しんだ輪王寺宮公弁法親王が寺の存続を望み、慶運大僧正を天台宗第1世として迎えた。

また、1700年から徳川幕府公認の富突(富くじ)が興行され、目黒不動、湯島天神と共に「江戸の三富」として有名です。
1728年(享保13年)に幕府により富突禁止令がだされるも、興行が許可され続け、1842年(天保13年)に禁令が出されるまで続けられた。

昔、谷中五重塔が有りましたが、今は跡が残っているだけです。

1645年 五重塔を建立する。
1772年 明和の大火により、五重塔を焼失する。
1868年 彰義隊の兵火により本坊、五重塔以外焼失。
1957年 谷中五重塔放火心中事件により、五重塔を焼失する。

この五重塔は、明治41年 (1908) に天王寺より当時の東京市に寄贈されたもので、幸田露伴の小説『五重塔』のモデルにもなった。
東京の名所のひとつで、谷中霊園のシンボルになっていた。
塔は7月6日の早朝に炎上し焼失した。
焼け跡の芯柱付近から男女の区別も付かないほど焼損した焼死体2体が発見された。
僅かに残された遺留品の捜査で2人は都内の裁縫店に勤務していた50歳代男性と20歳代女性であることが判明した。
関係者の証言から、ふたりは不倫関係の清算を図るために焼身自殺を図り、その際の出火が延焼して塔全体が焼失したものと推定された。

枝垂れ桜が寒さにもめげず咲き始めていました。
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谷中大仏がありました。
「丈六仏」呼ばれるそうですが、これはお釈迦様の身長が1丈6尺(およそ4メートル85センチ)であることから、その高さに作った仏像を言います。
本来、坐像であれば8尺になりますが、この大仏は1丈6尺サイズそのままなのです。
今から300年以上前の江戸時代、元禄3年(1690)生まれ。天王寺の前身、感応寺の住職・日遼が鋳造したものです。
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谷中さくら通りでお花見をしている人が沢山いました。
園内には ソメイヨシノほか約150本があり、道路を中心に桜がトンネルを形成しています。
まだ満開には程遠いんですが、寒さにめげず、道路端にシートを敷いて頑張ってました。
ご苦労様です。
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谷中霊園には、著名人のお墓が沢山あります。
ちょっと思い浮かぶだけでも、自由民主党を結成した元総理大臣の鳩山一郎、日本を代表する実業家、渋沢栄一、日本画壇の巨匠、横山大観、植物学者の牧野富太郎・・・。ユニークなところでは、明治の毒婦と呼ばれた高橋お伝、オッペケペー節で知られる川上音二郎などもここに眠っています。
お伝と、音二郎のお墓は、さくら通り沿いにあるので、お参りしやすいです。

徳川慶喜墓所

また、中程には徳川15代将軍慶喜のお墓もあります。
葵の御紋がついた門に閉ざされていますが、立派な墓域を訪れる人はあとをたちません。
門の中の正面には徳川慶喜公事蹟顕彰碑、その奥の左側のお墓が徳川慶喜のもので、右側は夫人のものです。

徳川慶喜は幕末を背景にした小説等に必ず出てきます。
大阪城でもう一度戦う準備を進めていたが、夜中に側近だけ連れて船で江戸に逃げ帰ってしまって、幕府軍の負けが確定してしまった。
しかし、江戸城を無血開城した最後の将軍という評価。
その後、徳川慶喜は水戸へと退去し、1913(大正2)年に77歳で亡くなっています。
そして、ここにお墓が作られている。
知らなかった!
こんな所にお墓があったなんて。
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全生庵

山岡鉄舟居士が徳川幕末・明治維新の際、国事に殉じた人々の菩提を弔うために明治十六年に建立したお寺。
尚、居士との因縁で落語家の三遊亭円朝の墓所があり円朝遣愛の幽霊画五十幅 明治大正名筆の観音画百幅が所蔵されている。
三遊亭円朝(1839〜1900)は幕末から明治にかけて落語界の大看板であると共に、「怪談牡丹燈籠」「真景累ヶ淵」「文七元結」などの原作者としても広く知られている。
そして、今なお落語界はもとより歌舞伎をはじめ、演芸界全般に多大な影響を与え続けている。
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谷中大観音
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満開の桜があった。
美しい。
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観音寺・築地(ついじ)塀

谷中は、明暦の大火後、寺院が移転して寺町を形成したところです。
都内で唯一残された「築地塀」を見ることが出来ます。

瓦と土を交互に積み重ねて作った土塀に屋根瓦を葺いためずらしい塀です。
「平成4年度台東区まちかど景観コンクール」で「まちかど賞」に選ばれました。
正確には、練塀(ねりべい)と言うらしい。
瓦と粘土を交互に積み重ねて造った塀。
徳川時代の大名の邸宅、寺院に多く使用された。
江戸有数の寺町であった面影を伝える練塀 。
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夕焼けだんだん。

今日の散策の終了地点です。
谷中銀座商店街見渡すことのできる40段ほどの階段。
谷中猫と呼ばれる野良猫の遊び場でもある。
「夕焼けだんだん」の名称は平成2年に石段が改装された際の愛称募集時に、タウン誌「谷根千」の編集者である森まゆみさんが応募した名称です。
夕日のあたる頃、そこに見えるのは懐かしい昭和の光景のようだった。
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寒かった。
この階段を上って日暮里方面に行きますか。
桜が満開となる頃だったら良かったのに!
残念!

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