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zoom RSS OLAFの東京散歩 第7回 (’09年1月 日本橋周辺 金融関連施設)

<<   作成日時 : 2009/02/01 08:09   >>

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1月30日雨が降る中、街中を歩くのでなく室内中心の見学の散歩に出かける。
出かける先は、東京証券取引所・貨幣博物館・中央三井信託銀行とお金にまつわる所。
今までの散歩と少し違う場所を選択した。


雨の中、東京証券取引所の西口(見学者入り口)に到着。
空港並みの金属探知機を通り、ボディー・チェックを受けて内部へ。
『ビ〜〜〜〜』
ポケットの中からは総て出したのに!
ベルトを外さなかったので、バックルが反応。
2階の見学者通路を歩く。
いつもTVで見慣れた、マーケットセンターが目に飛び込んでくる。
東京証券取引所のマーケット部門が売買監理業務を行う、エリアだそうです。
直径17メートルの巨大なガラスシリンダーが市場の透明性・公正性を象徴しているとの事。
最上部の回転部分は、株式の売買が成立する度にオレンジの灯り(会社名・売買額・前日比)が付き、くるくる廻る。
取引が活発になると、回転が速くなるので、目が廻りそう!
でも、現在の様に株式市場が不況だとそんなに早く廻っていない様だ。
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ディスプレイで取引を監視する人達が沢山いる。
疲れるだろうな〜〜〜〜。
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TVニュース等でよく見る新規上場企業の社長などが、上場し初値が付いたその日にたたく鐘。
その下には大きなロゴをあしらった垂れ幕が下がっていた。
東証Arrowsのロゴは、まさに矢(アロウ)。
躍動的に交差する2本の矢印。
常に変動する市場をイメージさせるとともに、証券の売買取引等を表し、国際的なネットワークの中で中心的な存在となって、ダイナミックに活躍する様を表現しているそうです。
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マーケットセンターの右側にメディアセンターが有ります。
市況情報を全世界に向けて報道するために、民放各社やNHKなどのマスメディア11社がスタジオを設けているエリアだそうです。
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オープンプラットフォームに大きなディスプレイが有ります。
刻々変化する平均株価や、東証トピックス等が表示されています。
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1階に東証プラザ「証券史料ホール」があります。
証券に関する史料が展示されていました。
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目を引かれたのは、サンリオの株券です。
キティちゃんのマークが入っていました。
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東京証券取引所本館の北、道路を挟んで日本橋川の辺に小さな神社があります。
これが証券界の守り神とされる兜神社です。
ここは藤原秀郷が将門の首を運ぶ途中、この地に将門の兜を落としたので、兜を埋めて塚を築いたという言い伝えがあり、以前は「兜塚」と呼ばれる塚があったそうです。
それが、兜神社の名前の由来だということです。
サラリーマン風の人が、お参りをしていました。
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次は、貨幣博物館。
この博物館は、日本銀行が昭和57年(1982)に創立百周年を記念して金融研究所内に貨幣博物館を設置し、昭和60年(1985)11月から開館しました。
日本銀行は、わが国および諸外国における古来からの貨幣類を資料として収集し、その研究を行ってきましたが、太平洋戦争の末期に貨幣収集界の第一人者と言われた田中啓文(たなか・けいぶん)氏の収集品「銭幣館(せんぺいかん)コレクション」を譲り受けました。
その後も収集を続け現在に到っています。
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展示は、貨幣の時代の変化を中心に組み立てられていました。
わが国ではじめて公的に鋳造・発行された貨幣。
中国(唐)の文化や制度を積極的に採用していた律令政府(朝廷)は、貨幣も唐銭「開元通宝」をモデルとし、円形方孔で大きさも重さもほぼ同様の「和同開珎」を発行した。
当時のわが国の人々は貨幣になじみがなかったため、朝廷は貨幣の使用を強制したり、貨幣を蓄えた者に位階を与えるといった流通促進策をとって普及に努めた。(説明文より)
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天正大判は、豊臣秀吉が彫金師の後藤家に命じて、天正16年(1588)から作らせた大判。
写真は天正長大判と呼ばれる大型のもの。
天下を統一した豊臣秀吉は、全国の鉱山を直接支配して大量の金銀を手中に収め、新たに金銀貨を鋳造した。
これは、徳川家康による全国的な貨幣の統一の先き駆けとなった。
大判は日常取引用ではなく、恩賞用など特殊な目的に用いられることが多く、表面には「拾両」、「後藤」の文字と後藤の「花押」が墨書きされている。
なお、「拾両」とは額面単位ではなく、重さが165gであることを示す。(説明文より)
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実際に持ってみることが出来るコーナーが有りました。
ずっしりしてます。
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最初の日本銀行券(十円券)と本位銀貨。
紙幣は図柄に福の神の大黒天が用いられていることから、通称「大黒札」と呼ばれる。
日本銀行は銀貨と各種紙幣(政府紙幣、国立銀行紙幣)間の価値が安定するのを待って、開業から約3年後に写真のような兌換銀行券の発行を開始した。
額面の下に「銀貨と引き換える」旨の文言があるが、この場合は本位銀貨10枚と同等の価値であることを示している。(説明文より)
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不思議な貨幣が展示されていました。
こんな形の貨幣があるのだ・・・
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実際に一億円を持ってみるコーナーが有りました。
紙は本物の用紙を使い印刷はされていない札束だそうです。
10kgだそうです。
そんなに重くはないです。
本物が欲しい!!
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常盤橋のそばの常盤公園に渋沢栄一の銅像が立っていました。
渋沢栄一は、天保11年(1840年)富農・渋沢市郎右衛門の長男として現在の埼玉県深谷市血洗島で生まれました。
隣村の尾高惇忠あつただに漢学を学び、江戸に出て海保漁村かいほ・ぎょそんに儒学を、千葉栄次郎に剣術を学びました。
文久3年(1863年)23歳の時、従兄らと尊皇攘夷思想に傾き、高崎城の乗っ取りなどを計画するが、その非を知って中止します。
その後、一橋家臣・平岡円四郎の推挙により、一橋慶喜に出仕して領内の産業振興と一橋家財政の強化を図りました。
慶喜の将軍就任には反対しましたが、叶わず、慶喜が第十五代将軍になったために心ならずも幕臣となり、陸軍奉行支配調役を拝命。
慶応3年(1867年)27歳の時、パリ万国博覧会に出席する慶喜の実弟・徳川昭武に御勘定役(会計係)として随行し渡欧しました。
フランスほかヨーロッパ各地でその社会経済制度や科学技術を見学。
明治元年(1868年)、大政奉還・王政復古・鳥羽伏見の敗報に接し帰国。
昭武は水戸藩主となり、渋沢は慶喜が謹慎していた静岡に移りました。
明治2年(1869年)29歳で明治政府に出仕し、パリで学んだ知識を生かして新貨条例・国立銀行条例などの諸制度改革を行い、日本に初めて合本組織(株式会社)を導入します。
民間経済界に入った後は道徳経済合一説を唱え、第一国立銀行・王子製紙・大阪紡績・東京瓦斯・日本郵船・帝国ホテル・札幌ビール・浅野セメント・帝国劇場など約500社の設立や商業会議所・銀行集会所などの経済界の組織作りに関与し、実業界の指導的役割を果たしました。
まさに、日本の資本主義の基礎を築いた人物である。
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昼食は、日本橋”とよだ”で頂きました。
なんとミシュラン東京の1つ星をもらっているそうです。
江戸末期文久3年(1863)創業以来140有余年の歴史をもっているそうです。
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最後は、中央三井信託銀行の地下金庫です。
この建物は、関東大震災を経た昭和4年(1929)に、三井合名会社、三井銀行、三井信託銀行、三井物産、三井鉱山などの本社が入る新社屋として竣工した。
設計・施工はアメリカの会社に依頼。コリント式の列柱や、1階フロアの吹き抜け大空間、イタリア産大理石の内装、繊細な彫刻が施されたインテリアなどが、昭和初期の日本の建築界に大きな影響を与えた。
現存する日本最古の近代アメリカン・オフィスビルといわれ、平成10年に国の重要文化財に指定されている。
その地下に重さ50tと言われる金庫が有ります。
陸上では重くて運べなかったので、船で常盤橋の所まで運び、コロでこの地まで運搬したと言ってました。
扉は、厚さ1m弱もあるそうです。
今も貸し金庫として使われており、扉は朝晩開け閉めされるそうです。
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12,953歩の散歩でした。

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